万葉の昔から愛されてきた花 今は数少なく
図鑑では「カワラナデシコ」とのっていますが、普通に「ナデシコ」とよんでいるのが、この花です。
「ナデシコ」は漢字では「撫子」、つまり、撫でいつくしむように育てられた子どものようにかわいい花というのが、語源のようです。
カワラナデシコは、ナデシコ科の多年草で、白い粉をふいたような細い茎の先に、澄んだピンク色の花を咲かせます。
5枚の花びらの縁には細く深い切り込みがあって、清楚な花の色と繊細な花びらの形がよく似合う花です。
ちなみに、ナデシコの英語名はpink。つまりピンク色とは、日本の伝統的な和色である撫子色をさしていることになります。
花の色は 撫子色、深く切り込んだ繊細な花びら
カワラナデシコは、古くから「撫子」の名で日本に自生し、古人から親しまれてきました。
「万葉集」では、山上憶良が、数ある花の中から「秋の七草」(巻8)にとりあげ歌っています。
大伴家持は、この花が好きで
我がやどに 蒔(ま)きしなでしこ いつしかも
花に咲きなむ なそへつつ見む (万葉集 巻8-1448)
と歌い、種子から播いて育てて、花の咲くのを楽しんでいます。
紫式部の「源氏物語」でも「撫子」の名で何度か登場しますが、第26帖の巻名「常夏」は、ナデシコの別名です。ナデシコは夏から秋にかけてその開花の期間は長く、夏には常にみられるので、「常夏(とこなつ)」という名でもよばれていました。
紫式部とはライバルであった清少納言の「枕の草子」には、
草の花は、なでしこ。 唐のはさらなり。大和のも、いとめでたし。(第64段)
とあり、清少納言にとって、ナデシコは、かなりお気に入りの花だったようです。
「唐のは」とは「唐のナデシコ」という意味で、平安時代に中国より渡来した同じナデシコ科の石竹(セキチク)のことです。
「大和の」は、中国のナデシコに対して「日本のナデシコ」という意味。それで、日本のナデシコは、「大和ナデシコ」とも呼ばれるようになりました。
朝露にぬれた花。古人の心をとらえてきた カワラナデシコの花
愛らしい子どもに見立てて「撫子」とよばれた花ですが、戦時中はその意味が大きく歪められ、特別な意味を背負わされます。
勇敢で弱音をはかない「男らしさ」を象徴する「大和男子」に対して、従順で、忍耐強い「女らしさ」の象徴に「大和なでしこ」が利用されました。
「桜」の花が特攻精神の象徴として利用されたように、古来から親しまれ日本人の情感に深く根づいている花を、権力は国民の精神の動員に巧みに利用していったのです。
花をシンボル化して心の統合に利用しようとする動きは、いつでも、どの時代でもおきてきます。
守りたいのは、花に向きあう個々の自由な心。美しさの押し付けに対する違和感や拒否する感性は、常に本物の自然と向き合い、草花や樹木の姿とふれあうなかで磨かれていくように思います。
5枚の花びらは、細長い萼筒につつまれています
カワラナデシコは、日当たりのよい、開けた草地を生息地にしています。
河原に多く見られるのは、絶えず土砂が削られる環境なので、大きな植物が生えにくいためです。
かつては、林の周囲の草地や田畑のまわりの土手などでも多く見られました。それは、農家の人が、牛馬の飼育や農作業などで、定期的に草刈りを行うので、そこが日当たりのよい環境になっていたからでした。
カワラナデシコは多年草なので、種でも株からでも育ち、冬の間はロゼット状に葉を広げて過ごします。
早春になると、茎が伸び始めて、次々と新しい葉が出てきます。
茎は夏まで伸び続けますが、直立せずに、斜上または横向きに伸びるのも多いので、生息地が草刈りにあってもうまく逃れることができました。
年に何度も草刈りが行われると、生き延びるのは難しくなりますが、今は、
逆に草刈りされずに放っておかれる状態なので、大型の植物が生え茂り、日陰になって育つことができません。
生い茂る草むら いつまで生き延びられるでしょうか
カワラナデシコにとって最も生息環境が良かった河原も、河川工事で固められ、生息できる環境でなくなってきました。
しだいに生息地が狭められているカワラナデシコは、数を減らし、各地で絶滅が危惧されています。このまま幻の花となってしまうのでしょうか。
山間の昔ながらの田畑の土手や、棚田の法面など、適度に草刈りの行われる土地で、日本の原風景が残る環境が、カワラナデシコの最後の生息地になるのかもしれません。(千)