mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

憲法記念日を前に平和について ~『持論時論』から ~

 先月4月20日(金)の河北新報「持論時論」に、春さんの投稿が掲載されました。すでに読まれている方もあると思いますが紹介します。

     憲法9条改正 不戦の誓い  主体性大切

 自民党憲法改正推進本部が3月22日、憲法9条について、戦争放棄の1項、戦力不保持を定めた2項を維持しつつ、自衛隊の保持を新たに明記するという改正案を固めた。安倍晋三首相によれば、自民党は「改憲を党是としてきた」そうだから、森友学園問題などで揺れているとはいえ、「安倍1強」と言われる今こそチャンスということなのだろう。

 不戦を誓った憲法の前文は「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ」と結ばれている。施行以来70年、私たちは、この憲法に掲げた世界に誇るべき誓いにどれだけの力をかけてきたろうか。このような憲法を持っていることをよろこび、その下で平穏に暮らしながらも、前文に書きこまれている決意・誓いを自分も体するよう意識的に生きてきただろうか。振り返ってみると、私は胸を張れない。

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 9条は、改憲の仕方次第で「戦争」につながる条文だ。私は戦争で父を亡くし、戦争を少しは知っているのだが、9条改憲の動きに対して「困ったものだ」とただ頭を抱えていた。戦争を知らない世代が増えており、改憲への抵抗感が薄れているという危機意識を持つ人は少なくない。だが、それだけでとどまっていては、早晩、憲法は大きく変質させられてしまう恐れがある。

 もやもやした気分が続いていたが、最近、児童文学者の清水真砂子さんの次のような文を読んだ。

 「・・・私たちは、平和が生きのびられなくて戦争をおっぱじめるんじゃないか。やがて私はそう思い始めました。平和を生きのびることができるならば、もしも、経済問題も民族問題も賢く解決して、なんとか平和を生きのびることができるならば、たぶん戦争を起こさなくてもすむのではないか。体験を伝えるだけではとても戦争をふせぐことはできないだろう、と思い始めたのです」(『日本人のこころⅡ』所収)

 当たり前のことと思われるかもしれないが、私には大変新鮮な言葉だった。清水さんは「とにかく平和を生きのびることなんだ。それが戦争をふせぐ』と言う。平和を生き延びる。私は使ったことがない言葉だ。でも、その言葉の響きに切迫感を感じる。辞書は「生き延びる」の意味を「命にかかわるような危ない状況を切り抜けて命を保つ」(大辞林)と説明している。平和を生き延びることは簡単ではなく、極めて主体的な行為なのだ。

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 日本国憲法は「恒久の平和を念願し」「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」つくった平和憲法である。私たちは一人一人が平和を生き延びようと努める責任を負っている。言葉を変えれば、常に平和を考え続け、守り続けなければならない。それができるかどうか、私たち国民が直接問われている。私たちが「何事もない」と感じ、「何もしない」のでは平和を生き延びることはできないのだと、深く心に刻んで日々を過ごしたい。

 春さんの投稿を打ちながら、谷川俊太郎さんの「平和」という詩を思い出しました。

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  谷川さんは、平和は空気のようなもので、退屈で、素っ気ないと言う。そうなのだ。平和は目に見えるわけじゃなし、何か楽しいことを提供してくれるわけでもない。ねえねえ平和~  と甘く囁いたからと言って、振り向いてくれるわけでもない。素っ気ないのだ。
 そこで谷川さん「平和って何!」と語気を強めて迫ると、平和は土だなあ、唇だな、汚れた下着だな、古い額縁だななんてよくわからないことを言う。その心は? えっ何々? 谷川さん聞かせてよ。

 きっとそのことが問われ、求められているのだろう。春さんがいう「平和を生き延びるために」必要なことにもつながっているのではないだろうか。そんなことを思った。( キヨ )