mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

廃道女子ならぬ元祖・廃道男子? 奥の細道を行く

 テレビのチャンネルを回していたら、倒木が横たわり大きな石が座っている荒れ果てた山道を若い女の人が歩いていた。ナレーターは話の中で「ハイドウジョシ」という聞いたことのない言葉を使っていた。どうやら「廃道女子」ということらしい。廃道になった道を探し歩くことを趣味にしている女性をカメラが追っていたのだ。
 それは短時間で終わったのだが、私に若い時、ただ1度古道を探して歩いたことを思い出させた。

 40数年前になる。「奥の細道」で芭蕉が歩いた道を歩いてみようと思いついた。特に理由らしい理由はない。宮城はいつも歩けるから山形から始めよう。とすると、鳴子の次になると考えはふくらみ、陸羽東線に乗車、山形最初の駅堺田駅で降り、尾花沢への下りに入る山刀伐峠まで歩くことにした。
その部分を「奥の細道」は次のように書く。

  蚤虱馬の尿する枕もと

 あるじのいふ。是より出羽の國に大山を隔てて、道定かならざれば、道しるべの人を頼みて越ゆべきよしを申す。さらばと云ひて人を頼み侍れば、究竟(くつきやう)の若者、反脇指をよこたへ、樫の杖を携へて、我我が先に立ちて行く。今日こそ必ず危ふき目にもあふべき日なれと、辛き思ひをなして後について行く。あるじの云ふにたがはず、高山森々として一鳥聲聞かず。木の下闇茂りあひて、夜行くがごとし。雲端に土ふる心地して、篠の中踏み分け踏み分け、水を渉り岩に躓いて、肌につめたき汗を流して、最上の庄に出づ。かの案内せし男の子の云ふやう、「此の道必ず不用の事有り。恙なう送りまゐらせて、仕合せしたり」と、悦びて別れぬ。跡に聞きてさへ胸とどろくのみ也。
             [*文中の( )部分は私のおせっかいである]

 堺田駅の近くの「封人の家」を、歩きに入る前にまず訪ねる。当時の庄屋・有路家で芭蕉曾良は、一夜のつもりが三日も留まることになった家だ。その理由を「奥の細道」は、「蚤虱・・・」の句の前に、「大山を登つて日既に暮れければ、封人の家を見かけて舎(やどり)を求む。三日風雨荒れて、よしなき山中に逗留す。」と記している。ついでに、「・・尿する枕もと」という句から見えてくる「その庄屋の家の馬小屋の傍に寝たのか」という疑問にこたえるべきだろうが、早く歩き始めなければならないので、「そうではなかったようだ」ということだけ言って、急いで、ここは歩き出すことにする。

 封人の家を出て西に向かう。
 たまたま見つけた畑仕事の人に古道を尋ねる。道沿いに点在する家の陰の所々に狭い路地として残っているのが芭蕉の歩いた道だとすぐ教えてもらえた。土地の人は誇りにしているのかもしれない。ほんの少しだけ残されたアシアトと同じようなものだが。でも、その部分は残さず歩く。
 赤倉温泉を左に見てしばらく歩くうちに、道は左の山手に伸びて山に入り込む。この道も車道だ。でも、車と会うことはなかった。
 ゆるやかな登りがしばらくつづいている途中、右手に雑木の落ち葉で埋まった細い山道を見つけ、その山道に入る。「高山森々として一鳥聲聞かず」とはとても言い難い山中だった。落ち葉を踏んで登ると前方が明るくなってきて、大きく迂回してきた車道に出た。ここが山刀伐峠。前方が幾重にも峰がつづく。道は一気に下りになり、行き先が尾花沢と記されている。
 私は峠でひとり休んで、来た道をもどり、赤倉温泉から電車に乗って帰った。初めての歩きで心地よい一日になったのだが、それ以降「奥の細道」歩きは一度もつづくことがなかった。忙しさが許してくれなかったは言い訳か。
 つまり、“ハイドウダンシ”になれなかった情けない話ということになってしまった。( 春 )