mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

彼岸の日に思う ~ 内田樹の著書から ~

 3.11東日本大震災から七年が過ぎ、そして今日はお彼岸。それに加えこの間のいじめ・自死問題を考えながら、次のような文章を思い出している。
書名は忘れたが内田樹の著書だった、手元に残っているメモとコピーを元に思い起こす。

 <人間と他の霊長類を分ける決定的な特性は何か>という問題提起。

 人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。それは「墓をつくること」。
 数万年前の旧石器時代に「死者を葬る」習慣を持っていた。
 これは「生きている人間」と「死んでいる人間」は「違う」ことを知ったという意味でなく、「死んでいる人間」を「生きている」ように、ありありと感じた生物が人間だ、ということ。墓を作ったのは、「墓を作って遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からだ。「墓石」の役目は戻れないような蓋である。

 さらに著者は続けて次の文を載せていた。 

私たちの社会を基礎づける規範、例えば日本国憲法や人権宣言やアメリカの独立宣言には、すべて「人間には生命、自由、幸福を追求する権利がある」という一条が含まれている。これはよく読むと不思議な文言だ。というのは、「自由を失った状態」や「幸福を失った状態」については、私たちはそれを身に以て経験することも、身近な他人の経験として見聞することもできるけれど、「生命を失った状態」については、これを経験したことがないし、経験者から「死んだ後にはこんな気分になるんだよ」という談話を聞いたこともないからである。にもかかわらず、「生命を失わないこと」が私たちの社会における「人間的権利」の冒頭に置かれている。ということは、人間は「死んだ後」というのが、「どういう感じの状態であるか」を「知っている」ということである。
「生きている限り決して触れ得ない境位に、生きていながら触れることができる」というこの「錯覚」が人間性の根本的性格をかたちづくっている。人間性にかかわるすべては、この本性から派生している。 

 「生と死」という重いテーマであるが、内田の文を読み返しながら、3月11日のテレビ画面に映し出される被災者(家族が行方不明のまま)が7年を経ても「墓」を作らずに待つ姿や、語り部活動に取り組む方たちの姿、冷たい雨の中を花束を手に墓地に向かう人々の姿、さらには、いじめ・自死の子の遺族の方の言動から、一人ひとりの胸中にあるのであろう死者への想いを共有する努力をしていかなければと強く思う春のお彼岸になった。( 仁 )