mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

最終バスと公衆電話 ~10円玉を握りしめて ~

 ずいぶん昔の話になる。夜、アパート住まいをしていたTさんを訪ねた時のことである。今は路線がすっかり変わってしまったが、当時は自宅にもどるためのバス停も近くにあった。

 帰りのバス停に立ったのは最終バスの10時ごろだったと思う。
 こんな時間に場末のバス停で待つ人なんてそういるわけはない。その日も私ひとりだけだった。

 バス停に並んで公衆電話があった。ボックスにきちんと収まっているものではなくて、電話機だけに被いのあるもの。その頃の公衆電話の多くはそんなタイプではなかったかと思う。

 バス停に立った私と前後するように、子どもを背にした若い女の人がその電話の前に立った。受話器を取り、10円玉を何枚も入れて、話し始めた。私はただバスをぼんやりと待っているだけなので、しぜん気はそっちに向いた。話はほとんど耳に入ってこないが、話の相手はその話しぶりから母親らしい。しだいに泣き声になっていった。遠距離通話らしく、10円玉の落ちる音が早い。夜遅いせいもあろうが、その音は泣き声といっしょになるせいか、なんとも切なく響いてくる。どのくらいの10円玉を握りしめていたのだろうか・・・。
 若いお母さんの泣き声は、傍にいる私など目に入っていないかのように高くなる。「ワカヤマ」ということばが耳に入ってくる。「カエリタイ」とも・・・。

 電話が終わらないうちにバスが来た。電話はまだつづいていた。 

 こんな昔の話をなぜとりあげようとしたのか、問われても答えようはない。私にとっては、どういうわけか、今も妙に思い出す光景のひとつなのだ。10円玉を手にした時、フッと浮かんだり、ぼんやりしている時にとか・・・。
 その時、若い母親に握られていた10円は、音をたてるたびに、交換手段としてだけの「物」を超えて「人の心をつなぐもの」に私には思えたからかもしれない。
 私の推理だが、彼女は、何度も何度も、郷里(和歌山?)の母親への電話を考えつづけたにちがいない。10円玉も何日もかかって、ためつづけておいたものだろう。そして、あの夜、とうとう我慢しきれずに公衆電話の前に立ったにちがいない。

 今は電話に10円玉は必要とされない。話そうと思えばすぐ携帯を手にすればいい。用あることもないこともすぐ話せる。でも、人間としてもつべきものをそこで失ってはいないだろうか? 携帯をもっていない者のヒガミか・・・。
 何十年前にもどることができないことも十分承知で言っているのだが、あえて私は、こんな心配は今携帯だけに限ってではなくあるのではないかと思うので言ってみた。

                                   ( 春 )