ずいぶん昔の話になる。夜、アパート住まいをしていたTさんを訪ねた時のことである。今は路線がすっかり変わってしまったが、当時は自宅にもどるためのバス停も近くにあった。
帰りのバス停に立ったのは最終バスの10時ごろだったと思う。
バス停に並んで公衆電話があった。ボックスにきちんと収まっているものではなくて、電話機だけに被いのあるもの。その頃の公衆電話の多くはそんなタイプではなかったかと思う。
バス停に立った私と前後するように、子どもを背にした若い女の人がその電話の前に立った。受話器を取り、10円玉を何枚も入れて、話し始めた。私はただバスをぼんやりと待っているだけなので、しぜん気はそっちに向いた。話はほとんど耳に入ってこないが、話の相手はその話しぶりから母親らしい。しだいに泣き声になっていった。遠距離通話らしく、10円玉の落ちる音が早い。夜遅いせいもあろうが、その音は泣き声といっしょになるせいか、なんとも切なく響いてくる。どのくらいの10円玉を握りしめていたのだろうか・・・。
電話が終わらないうちにバスが来た。電話はまだつづいていた。
こんな昔の話をなぜとりあげようとしたのか、問われても答えようはない。私にとっては、どういうわけか、今も妙に思い出す光景のひとつなのだ。10円玉を手にした時、フッと浮かんだり、ぼんやりしている時にとか・・・。
今は電話に10円玉は必要とされない。話そうと思えばすぐ携帯を手にすればいい。用あることもないこともすぐ話せる。でも、人間としてもつべきものをそこで失ってはいないだろうか? 携帯をもっていない者のヒガミか・・・。
( 春 )