mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

早坂暁さんを偲んで

 18日付の新聞で、「夢千代日記」や「花へんろ」で知られる脚本家で作家の早坂暁さんが亡くなられたことを知りました。

 思い出すのは、研究センター発足から4年目となる1997年の夏、早坂さんが脚本を書かれた映画『夏少女』の上映と講演会を催したことです。仙南柴田町でも行い、大変盛況であったことを思い出します。

 早坂さんは愛媛県松山市のご出身、センター前代表の中森の方が若干年上となりますが、旧制松山中学校の同窓生同士となります。その後、早坂さんは海軍兵学校へと進まれました。戦後は、最後の旧制松山高校の生徒として青春時代を過ごされます。その青春時代を記した自伝的小説『ダウンタウン・ヒーローズ』は、のちに山田洋次監督が映画化しました。戦後の貧しい時代ながら自由を謳歌し、恋や人生に悩みつつ生きていく青春群像が描かれています。作品の中には、確か食堂のおじさん役として渥美清さんも登場していたと思います。

 訃報を知り、『夏少女』について振り返ろうとネットで検索していたところ、中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターのサイトに、「夏少女」を含め早坂さんの作品と人生・人となりについて短い素敵な記事を見つけました。早坂さんのご冥福をお祈りするとともに、早坂さんの生前を偲んでいただければと思い掲載いたします。

夢千代日記早坂暁さん死去
     平和への願い 作品に託す

  脚本家で作家の早坂暁さんが東京都内で死去した。88歳だった。松山市出身。吉永小百合さんが広島の胎内被爆者を演じたNHKの人気ドラマ「夢千代日記」をはじめ、原爆と戦争を見据えた作品、そして活動に足跡を残した。

 奥底を流れていたのが「妹」の記憶だ。3歳下の春子さん。実は四国の遍路道に面した実家の前に捨てられていた、赤ちゃんだった。家の子として育てられ、ひそかに思い思われる。早坂さんはやがて防府市にあった海軍兵学校へ。そして春子さんは母から自らの出生について知らされる。「お兄ちゃん」に一目会って話をしたいと単身、防府へ向かったのが、1945年8月6日の運命の日の直前だった。

 終戦後、復員途中の広島駅で、廃墟の暗闇の中に無数のリンの光が燃えているのを早坂さんは見たという。防府に訪ねてこなかった春子さんの行方は、古里でも分からないまま。広島で被爆死したとしか考えられなかった。あの光の中に妹がいたに違いない、と。

 その思いを原点に、多くの作品が生まれた。春子さんの慰霊を考え続けた。妹の面影を乗せた、被爆死した少女が現代によみがえる映画「夏少女」の脚本を、戦後50年の節目に手がけた。被爆直後の惨状を広島の街中に陶板にして残す、「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」の会長も務めた。ヒロシマが過去になることを懸念していた。

                (2017年12月18日  ヒロシマ平和メディアセンター長 岩崎誠)