mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

東京エキストラ物語

 先週末、休みをとって東京に行った。久しぶりの東京。両親が亡くなってからは、墓参りで行くぐらいになってしまった。母方の実家のある杉並の叔母も、しばらく前に亡くなって、その家も今はどうなっているかわからない。私と東京との関係が、ここ数年の間にどんどんと薄らいで行っている。

 そんなことを思いながら車窓に目をやると、つい先ほどまでの田畑や山並みの広がる風景が、所狭しと建ち並ぶオフィスビルや和やかに微笑むアイドルの大形看板、そして夜になればきらびやかに町を彩る電光掲示板のライトの集合体へと変わっていく。この喧噪と猥雑さが私の中の故郷だ。

 東京に向かう新幹線に乗ると、以前は実家に帰るという安堵感があったが、両親が亡くなった今は? なぜだろう、緊張した胸苦しさでざわざわと落ち着かない気分になる。そもそも両親が亡くなってから、東京に「帰る」というコトバを使えなくなったのだ。すでに仙台が私の生活の場となって久しい。帰る家は仙台にあるではないか。しかし東京に「帰る」と言えない喪失感が、自分の心にぽっかりと穴を穿っている。なぜだ?

 私の父は、戦後まもなく東京に出て大学にかよった。両親は、長男の父に大学を出たら戻ってきてほしいと思っていたようだが、そのまま東京暮らしとなった。プロレタリアとして東京で生きることを決意した当時の若き父にとって、故郷は大した価値を持つものではなかったのだろう。だからだろうか、私にも実家に帰って来いと言ったことはなかった。その父が、年老いてから「俺は、しばらくしたら南に行く」と言い出した。南?? それは父の故郷のことだ。すでに故郷の実家は弟の叔父夫婦が後を継ぎ、父が暮らす場所などないことはわかっているはずなのだが。どうして今更、そんなことを言うのだ。おやじは故郷を捨てたんじゃなかったのか?それがあなたの生き方だったんじゃないか。ここがあなたの居場所だろ、そんな思いがした。それは、父の姿を見ながら育った私の、私自身に向けて発せられた声でもあった。

 ところが両親が亡くなり帰る実家もなくなると、「帰る」という言葉の喪失とともに、心にぽっかり穴があいて、その穴を埋めることができないでいる。仙台での今の私の生活が困るわけでも変わるわけでもないのに、私の足元が揺らいだ。ああ、これがデラシネということか?

 1年近く前になるだろうか、もっと前かもしれない。ふらっと研究センターにいらした山形孝夫さん(宗教人類学)に、そんなことを話すと、柔和な表情で聞きながら「それは、そうでしょう。あなたの生まれ出た、そのあなたを知っている人がこの世からいなくなったんですから。生まれてから今までのあなたを知っている人が親なんですよ」と言われた。
 今でも、その言葉がずっと私の中にある。私がこの世に生を受けた、その生を最初に受けとめ肯定したのが親だという、あまりにも当たり前と言えば当たり前、単純と言えば単純なことのなかに、今ある自分が生きている、そのことの事実に励まされている自分がいる。

 東京の乳白色の曇った空が近づいて来た。今日は、大変お世話になった(なっている)映画監督の撮影現場に、ボランティア・エキストラとして行くのだ。墓参りとは違う、東京での一日を楽しんだ。(キヨ)