mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

古希のたよりに、今も聞くのは Kの声

 先日、「・・・Y中学校で教えを頂いてから早や五十数年、私たちはもう70歳になりました。そこで、古希を祝って同級会(同期会)を下記のように開催・・・」という案内をもらった。

私は、20代半ばから8年間Y校に勤め、この案内者たちとは最初の2年間一緒だった。若かったゆえもあろうか、50数年経っているというに、Y中学校でのことは何から何まで覚えていると言って過言でない。まあ、「歳をとると昔のことは忘れないが今のことはすぐ忘れる」に入るのかもしれないが。

 私は、退職するまで、長居をする学校が多く転任回数は非常に少ない。しかし、スムーズな転任は1回しかなく、ある学校では、転任後しばらくの間、飲み会のたびに「お前をだまされてとった」と校長から言われた。「なんて騙されたの?」と聞くと、「そんなことはいい!」という調子で話は切れるということを何度か繰り返すということも。

 Y中学校に行ったのも、ちょっとしたワケアリだったのだが、ここでは、校長をはじめ同僚のすべてに、そして生徒たちにまで、教師としての在り方・生き方を言葉で言い尽くせないほど教えてもらった。「ちょっとしたワケアリ」で行くことになってしまったのだが、私の人生で、もし(私にY校がなかったら・・)と考えるだけで今でもゾッとするのである。

 この古希の祝いの連中との間の一つの例を述べてみよう。

 3年生の修学旅行の事前準備の時であった。宿泊部屋に合わせてグループ編成することになり、当然であるが、「そんなのはオレの決めることでない」と生徒に投げた。学級委員のKが中心になって話し合いを始めた。じつは、「そんなことは・・・」などと言いながら私には大きな心配があった。それは、夜尿症のMのことだった。もちろんクラスの誰もが知っていた。

話し合いが始まると、Mの顔はいつもよりも沈んで見えた。話し合いは簡単に決まった。「好きな者同士で組む」ということに。私もそうなるだろうことは予想していた。そうなったときのMのことが心配でならなかったのだ。

 「では、今から男女分かれて話し合うことにするから、それぞれ集まって決めろ」とKは言った。室内は男女に動き始めた。Kはさらにひとこと言葉をつづけた。「Mはオレのグループに入れ!」。

 私は驚いた。瞬間(Kはオレの心をすっかり見抜いていた)と思った。もちろん、それは違っていただろう。Kは司会をしながらMのことを心配していたのだ。中学3年生って、そのくらいの心遣いができるのだ。私の驚きは「その発見」になおふくらんだ。オレはこのような生徒たちと毎日向かい合っているのだと、なんとも言えない感動と喜びで体がほてってくるのだった。Mはホッとしたような顔色でKのそばに歩みよった。

50数年前になるKの発した「Mは・・・」の言葉は今でも変わることなく時々響き、私をハッとさせてくれる。生徒たちもこのように私を育ててくれたY校だった。( 春 )