mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

教育基本法制定経緯から考える ~ 神谷美恵子・エッセイ集より ~

 「神谷美恵子・エッセイ集」を読みかえす。このなかの「文部省日記(1945~46年)」がなかなかおもしろい。日本の戦後教育についてアメリカとどんな話し合いをしながら作っていったかが具体的に書かれているからである。

神谷さんはそのまえがきの中に「・・・当時、私は文部大臣または文部次官の通訳としてお供をし、占領軍司令部教育情報部へしばしば行った。使いとしてひとりで行くこともあった。そのすぐ後で、大臣や次官から報告を求められたため、その報告書の下書きとして、交渉から帰るとすぐ文部省で、その日の対談をメモしておいた。これが『文部省対総司令部公証記録』と題する個人メモである。・・・」と書いている。

話はそれるが、これを読んで、「森友・加計問題」の省庁に残っていないとされたメモ・記録騒ぎが浮かんだ。神谷さんの、この「個人メモ」が雑誌に発表されたのは20年後の67年。「メモは当時できるかぎり正確を期したものではあるが、テープ・レコーダーのなかった時代のこと・・・」とも書いている。本当にそうだ。なんの機器もない時の記録である。「記録がない」「消去した」などということは、現在の省庁が、よほどたるんでいるということになるのだろうか。そうは思いたくないが、だとすれば、個々の役人の問題というより、管理全体の問題ということになり、大臣も含めた上層部の在り方の見直しを早急にしないといけないのではないかと思った。

今を考えるためにも書きたいことはたくさんあるが、長くなるので、日記のほんの一片だけ紹介する。 

安倍大臣 (低い静かな声でおもむろに)私は日本が敗戦国であることを認める。また米国が戦勝国であることを認める。しかし米国が戦勝国たるをもって、あえて真理と正義を犯そうとするものでないことを信ずる。したがって、その範囲において私は自分の主張すべきことを主張するつもりだが、なにとぞこれを諒とせられたい。

ダイク  (ちょっとおどろき、かつ喜んだ様子で)意見に相違のあることは当然であり、また望ましいことである。いろいろな意見を提供し、これを討議していくところに初めて進歩がありうる。したがって、私と意見の違うときには、いつでも率直に言っていただきたい。 

神谷さんの記録の中からこの話し合いの始まりまでを少し補えば、「1月10日、父(*前田多門)が追放令にかかったため、その(*文部大臣)後任として父が安倍能成先生をくどきおとし・・・」「1月22日、午後3時半、安倍大臣対ダイク代将第1回会談」「日本側出席者 大臣、山崎次官,嘉治秘書官、日垣事務官。 米国側出席者 ダイク代将、ニュージェント中佐」「室へ入って来られた安倍大臣は、すり切れた長い外套、折目のないズボン、みがいてない靴を身につけ、棒のようにまっすぐで、上のほうがやや前こごみの姿勢。足をひきずりがちに、ゆっくりと歩いて来られる。白皙の顔には深いしわがきざまれ、奥深いところから鋭い眼が,現象のはるかかなたの『第一原理』の世界を凝視しているかのよう」と。

 神谷さんは通訳の仕事を5月に辞して大学にもどるので、そこで文部省日記は終わるが、その後も「安倍・ダイク」のような話し合いが重ねられて教育基本法憲法が制定されていったのだろうと私には想像される。それを一面的に「押し付けられた」という表現をすることに大きな違和感を覚える。先の、たった一言ずつの「安倍・ダイク」のやりとりからだけでもその後のこと・その他のことが私には想像できる。

誰が言い出したのか知らないが、単純に「押し付けられたものだから変えなければならない」と言い、十分な論議なしに、議員の数だけで押し切ろう(教育基本法は既に変えた)としているのは、あまりに情けない言論の府の姿としか見えず、今もこれからも大いに気になる。神谷さんが20年後に公にしたのも、何らかの危惧があってのことではなかったのか・・・。( 春 )