mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

子どもは一冊の本である ~河北新報・持論時論より~

 8月のある日、センターに来た春さんから、河北の持論時論に原稿を書いて送ったと聞いていた。どんな内容なのかとか、そういう具体的なことは、その時は何も聞かなかった。その後、掲載されるのはいつだろう? はたして掲載されるのだろうか?と思っていたが、9月4日の河北新報をみて、ああこれだ、と思った。

 記事タイトルは味気ないけど、中身は濃いと思います。以下に掲載します。

  教育行政 第一の仕事   子と向き合う環境大切

 

 教職にあった時、私は子どもたちに対して数々の失敗をしている。そのつど思い出したのが、教育実習で中学3年のY子からもらった「・・・それでも先生になるんですか」という抗議の手紙だった。クラスの実情も知らずに説教した私を許せなかったのだ。

 Y子にこう言われても、私は教師になった。いや、この手紙が教師になる決意を固くさせた。以来30数年、失敗のたびにその言葉を思い浮かべながらも、同じことを繰り返すどうしようもない教師だった。そんな自分を振り返りながら、私ほどではなくても、似たような失敗を多くの教師もしているのではないかと思う。

 問題は、その時、そのままにして終えてしまうか、それとも、何か自分なりに気付いて、子ども(たち)に向き合い直すかである。それによって、その後の仕事が随分違ってくるのではないかと、このごろ頻発する学校の「事件」を耳にするたびに考える。

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 オーストリアの詩人ペーター・ローゼッカーに、〈子どもは1冊の本である/その本から/われわれは何かを読み取り/その本に/われわれは何かを書き込んで/いかねばならぬ〉という詩がある。

 詩人は教師だけに向けて書いたのではなく、子どもに関わる全ての大人に向けて書いたはずだ。仙台市郡和子新市長は「教育に力を入れる」と述べており、私はもろ手を挙げて賛成する。問題は、どう具現化していくかだ。ローゼッカーは、子どもから何を読み取り何を書き込んでいくかと、私たちに問い掛けている。

 「読み取り」に関しては、「子どもはどんな本より読み応えのある本だ」と言った人もいた。私たちが問われるのは、この読み応えのある本とどのように向き合っているかだ。教師も親も「他の仕事が忙しくて」と言い訳をするようでは、丁寧に「読み取っている」とはとても思えない。学校でいえば、教師が何より優先すべきことは、ゆっくり時間をかけて子どもを読み取ることであり、教育行政のすべき仕事の第一は、そういう読み取りのできる学校・教師の環境の保障であろう。

 「何を書き込んでいく」かについて言えば、「読み取り」によってどんなことが見えてくるかによる。子どもたち全体を一つにして相手にすることが可能とは言えない場合もあり、ある時の書きこみは、面倒でも子ども一人一人を相手にせざるを得ないこともあるだろう。教室ゆえに全員で一緒に学び合いたいと願うとしても。

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 また、今の現場の様子から、教師が子ども(たち)に書き込んでいくものは「教科書そのものだ」と頭から思いこんでしまってはいないか、ということも気になる。

 教育行政の仕事は、ローゼッカーの「子どもは1冊の本である」がいかに現場で生かされていくように計らうか、に尽きると思う。学校が変われば、子どもたちの姿もおのずから変わってくるはずだ。それは学校だけではなく、家庭も含めて子どもの居場所全てに言えることであろう。

 春さんの持論時論のなかにある「保障」を、パソコンのキーボードでhosyouと打ち込み変換したら「保証」が出てきた。そう言えばいつ頃からか、学校からの便りなどで、学力にかかわってやたらと「保証」という文字が踊るようになった気がする・・・。それは、思い違いだろうか。 「保障」と「保証」同じホショウだけど、中身はずいぶん違うよね。学校や子どもから読み取る、読み取られるものが、いつの間にか変わってしまったからなのだろうか。そんなことを春さんの持論時論と重ねながら、ふと考えた。(キヨ)