mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

灘中学校 社会科歴史教科書採択の記事を読んで

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 8月19日付け朝日新聞に『慰安婦記述の教科書  採択中学へ抗議波紋/「圧力感じた」灘中校長の文 ネット拡散』との見出しで記事が掲載された。記事は、進学校として全国的にも有名な私立灘中学校が、学び舎発行の社会科歴史教科書を採択して以降、学校に県議や国会議員から「なぜあの教科書を採択したのか」という問い合わせを受けたり、同一の文面による抗議はがきが届くようになり、校長は、政治的圧力を感じたと伝えている。事の発端は、採択した学び舎発行の歴史教科書に、この間中学校歴史教科書から消えていた慰安婦についての記述があったことによる。新聞記事の伝えるところによると、学び舎発行の教科書を採択した他の中学校などにも同様の抗議などがあったらしい。なお新聞記事冒頭にある灘中校長が書いた文章「謂(いわ)れのない圧力の中で」は、後日知り合いから見せてもらった。 

 この記事を読みながら、まっさきに思ったのは灘中の校長をはじめ教職員は、特に社会科教師は大変だったろうということ。きっと議員からの問い合わせ、さらには記名・無記名による多くの誹謗中傷の類いの抗議のはがきや手紙、なかには電話によるものもあったかもしれない。まさにこれらの青天の霹靂的出来事にどう対処すればよいのかに苦心し、またその対応に辟易したことだろう。さらに言うなら、私立学校にとって社会的評判は、ときに学校経営の死活的問題にすらなるのだから。なんとも気の毒な話だ。しかしこれらを逆手にとって難関進学校・お受験校として一般に知られる灘中が、どのような教育方針や姿勢で日々教育活動を行おうとしているのか、行っているのかを広く一般社会に知ってもらうよい機会にするのもよいかも。

 実際、灘中校長の書いた文章を読めば、採択に際しての考えや歴史学習に対する考えはきちんと記されている。さらに校長がすごいのは、このような状況にありながらも保阪正康さんの『日本史のかたち』(岩波新書)を引用しつつ、「現憲法下において戦前のような軍国主義ファシズムが復活するとは考えられないが、多様性を否定し一つの考え方しか許さないような閉塞感の強い社会という意味での『正方形』は間もなく完成する、いやひょっとすると既に完成しているのかもしれない。」と現代日本社会について分析し結んでいることだ(ちなみに正方形とは、ファシズムの権力構造のこと)。文面からは、いろいろ大変だが心配ご無用という余裕すら感じさせる。野球解説者の張本(ハリ)さんなら、ここであっぱれを出すだろうか? その意味からすれば、朝日新聞の取材に対して「静観してほしい」というのもわかる気がする。

 ところで、今日のさまざまな社会的状況を勘案すると、灘中のような青天の霹靂的出来事を、まさかの出来事として片付けてはいけない気がする。だって灘中は、現にその「まさか!」を経験したのだから。では、そういう状況に遭遇、陥ったらどうすればよいだろうか?

 このことに一つの示唆を与えてくれのが『オリーブの森で語りあう』(同時代ライブラリー 岩波書店)である。同書は、『モモ』や『はてしない物語』で著名な作家ミヒャエル・エンデとその妻(ホフマン)、政治家のエアハルト・エプラー、演劇人であるハンネ・テヒルらが語りあった内容をまとめたもので、政治から文化・芸術に至るまで、さまざまなことが自由に語られている。その中に、ナチス政権下でどのような抵抗ができるかについて語られた、次のようなやり取りがある。

(ホフマン)-前半・略- ナチス政権の末期に、どうやったら独裁制に対抗できるかを、友だちと話しあったことがあるのよ。たどりついた解決法は、厳密にいうと、たったひとつだけで、残念ながらそれはすぐさま実行には移せなかった。「こわがらない」ということなんだけど、それは子どものときから学んでおく必要があるのよ。「こわがらない」ということは、恐怖とおなじように、伝染性のものよ。

(エプラー)そう。どうやらぼくたちにも似たような経験がある。時代も状況も、ずいぶんちがうけどね。権力の、すべてとはいかないが、かなりの部分は、その権力にたいするほかの人たちの不安にもとづいている。だから、それに不安をもたない人たちが登場すれば、かならず権力の一角はくずれる。規律とか、微妙な買収-たとえば出世ということだけど-とか、侮辱とかにみられる何重にもなっているメカニズムをこわがらない。そういう態度は、ぼくたちのシステムでは予測されてはいない。にもかかわらず、そういうことが起これば、なにもかも混乱する。

 恐怖や不安は伝染する。怖いと感じ、心が支配されてしまうと、その恐れや不安は周囲にもあっという間に伝染し、その場と人びとを支配してしまうことがある。灘中の先生たちに限らず、私たちはすでに様々な恐怖や不安に囲まれているのかもしれない?? つい最近も隣国のミサイルに国中が不安を感じさせられた?ではないか。いやミサイルだけではない。今や学校の日常風景になっている「いじめ」しかりである。
 「こわがらないこと」、それは私たちを恐怖や不安に陥れる根本をまなざし、精神の自由を保つために求められる一つの道徳的資質と態度と言えるのではないだろうか。今日9月1日は防災の日、そして94年前のこの日は関東大震災が起きた日だ。(キヨ)