mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

自然の猛威を前に ~九州の豪雨被害から~

 ここ毎日、福岡・大分を中心にした九州の広域で、その地の人たちが「過去に例がない」と口をそろえていう豪雨とそれがもたらす川の氾濫・土砂崩れについてのニュースが報じられている。現地の様子は本当にすさまじいものだ。

 このようなニュースは、岩手県境の北上川沿いに育った私に、戦後毎年のようにつづいた、小・中学生時代の川の氾濫を昨日のことのように思い出させる。
 当時の台風には、台風まで占領下にあったということか、カスリーンとかキテイとかと外国女性の名がつけられていた。
 名だけが優しさを装っていても、台風はそのたびに子どものわれわれを震え上がらせた。いつもはきれいに澄んでいて、メダカと一緒になって泳いでいる水の楽園が一夜にして逆巻く濁流に変身するのだ。
 なぜ戦後すぐに、北上が荒れたか、大人たちはそろえて「山の木を伐りすぎたからなあ」とか「人手がなくて山の手入れをしなかったからなあ」と言っていた。戦地から帰ってくる若い人たちの遺骨が増えるごとに、山は荒れ放題になり、小学生の私たちまで農家の畑の草取りがつづいた。毎日の学校帰りにちょっと山に入るだけで竹串いっぱいに採れていたキノコもしだいに採れなくなってきた。 

 そんな子ども体験が体にはりついているので、簡単に山を崩してしまうブルドーザーやダンプカーは快く見ることができない。今も3・11被災地に行って防潮堤用の土を運ぶ列をなして走るダンプを見ると、口には出すことはしないが、自然のバランスの崩れが心配になり、その後の山の手入れを考えているのだろうかと心配が増す。 

 話をもどす。私たちは、川が増水してくると、大事な荷物を2階に上げて、すぐ傍の堤防の上に避難するのだった。この堤防への避難については、なぜ川にもっとも近い堤防だったのかは、その時も今もわからない。「子どもは寝ろ!」と言われても、濁流が時々白い牙を見せたりうなりをあげたりするので、とても眠れたものではない。一時は、水が、堤防の低い箇所から内側に入り始めて大騒ぎしたこともあったが、奇跡的?に難を逃れることができたのだった。

 上流からさまざまなものが流れてくることも毎度で、家がまるごとということも何度もあった。それらのほとんどは、私たちのいる対岸の流れがつくっている渦に巻き込まれ、少しの間をおいてバラバラにされ、粉々にされた破片が水中から飛び上がってくる。ある時、子どもまでが水中から吹き上げられ、切り立つ崖の上に投げ上げられ、奇跡的に助かったということがあった。後でわかったことだが、3年生ぐらいで、岩手の一関市から流されてきたのだった。

 その子を見つけたのは、その崖まで広がる果樹園をもっている私の叔父だった。その後、その子(と言っても今は80歳近いと思うが)は、叔父の生前は欠かすことなく年に一度は挨拶に来つづけ、叔父が他界した後の今も顔を出すという。その話を聞くたびに、自分が奇跡的に助かった(助けてもらった)ということの礼ではあろうが、その人自身のもついのちに対する尊厳を忘れることがない行為を感じいい話だといつも聞いていた。 

 「自然」はいろんな暴れ方をする。私は、そのたびに呆然と立ち尽くすだけだった。今でもどうにもならないと思っている。だから、原発について「ここは安全だ」などという言葉は全く信じないし、いかに科学者といえども横着すぎると思う。
 自然を循環という視点で考えれば、「自然」にたたかれても仕方のないことを人間は平気でやりつづけている。あまりにも愚かだ。
 つねに私たちは「自然」の中の一員であり、「自然」に生かされているという謙虚な態度をもちつづけていきたいものと思う。( 春 )