いま、30年前の生活科教科書つくりのことを思い出しながら書いている。初体験であり、相当ハードな仕事だったので、時間が経っても鮮やかに残っていることがたくさんある。
その中でも、際立っているのは、やはり「新設される生活科の教科書をつくりたい」と言った、現代美術社の社長・太田弘のことばの数々である。
このことばに、自分では、長年努力して貯めこんできたつもりの教師としての貴重な財産をはぎ取られ、素っ裸にされたのだから。
裸にされながら、(どうしてこのような人間ができあがったのだろう)というのが、いつの間にか、一番の興味にふくれあがっていった。
しかし、仕事が終わるまでつかむことはできなかったし、彼は、さっさと「さよなら」も言わずに遠くへ逝ってしまった。
「なんで!」「ばかっ!」と言ってももどることをしなかった。
御殿場の霊園まで追いかけても何も言わなかった。
彼は、教科書のパンフレットに、「『生活科』の先生へ -新しい教科をどう考えたか」を書いたが、その最後を、アンリ・ファーブルの「生物講義」の次の文で結んだ。
歴史は、生命かけし戦場をば光輝あるものとみなし、
生活の基たる耕地には侮蔑あるのみ。
王ありてはその私生児の名に至るまで世に伝えしも、
小麦につきては一言だに語ることなし。
おろかなるかな、人のたどりきたりし道。
太田に、「もっと言えよ!」とせつけば、「この言葉で十分だろう。」と返してくるのかもしれない。
今も、なにも変わっていない。( 春 )