mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

手紙を、書くということ ~ 映画 セントラル・ステーション に寄せて ~

 11月28日付けdiaryの最後に、「みなさんのうちにも郵便受けがあるでしょ?」と書いたものの、手紙らしい手紙はひさしくもらっていない。もらっていないというその事実に、今の私の生活と人と人との関係の有様がみえるともいえる。届くものといえば、毎日の新聞と水道代や電気代の請求書と、あとはダイレクトメールや広告の類がほとんどだ。12月に入り喪中を知らせる幾つかのはがきが届いた。身内を亡くした悲しみや辛さを思うと気持ちは複雑だが、知らせをくれたことにうれしさを感じたりもする。そして、誰かからの手紙を待つ心性が私の中にあることを、ふと気づかせてくれる。 

 「手紙というものを滅多に書かなくなったぼくたちです。手紙を心待ちにしながら、自分では書こうとしないぼくたちです。そこにはぼくたちの一つの矛盾があり、また一つの貧しさがあると、そう感じられます」(『空想哲学スクール』 「手紙を書きたいという欲望」より)このように今を生きる私たちと手紙とのあり方を指摘したのは、diaryで映画『リトル・ボーイ』を紹介してくれた清眞人さんだ。 

 手紙を書く、そのことで思い出す映画がある。『セントラル・ステーション』というブラジル映画だ。母親を交通事故で失い孤児(ストリート・チルドレン)となった少年ジョズエが、まだ見ぬ父親を探すロードムービーだ。そして、この旅に同行するのが、もう一人の主人公である代筆屋のドーラ。二人の出会いは、ジョズエの母親が夫への手紙の代筆をドーラに頼んだことからはじまる。当初は、反目しているジョズエとドーラだが、ともに旅をするなかで二人の間にかけがえのない絆が生まれ、それぞれ新たな人生の道を歩みだすことになる。

 手紙は、この物語の始まりと終わりに置かれ、映画全体を前と後ろでがっちり挟み込んで支え、特にドーラの生き方を象徴するものとして描かれている。映画のオープニングは、代筆屋のドーラに向かい、恋人や遠く離れた故郷の両親などへ思いを語る人びとのアップではじまる。その中の一人にジョズエの母親も登場し、離れて暮らす飲んだくれの夫に向けての思いを、ドーラが手紙に書き留める。

 ジャズース へ

あなたは最低の夫よ。
手紙を書くのは
息子のジョズエがせがむから。
アル中の父親でも、
ジョズエは会いたがっているのよ。

 一方エンディングは、ドーラがジョズエへ手紙を書いて終わる。

 ジョズエ

手紙を書かない私が、あなたには書きます。
あなたの言う通り父さんはきっと帰る。

偉い父さんだもの。
機関車の運転士だった私の父は、よく私を運転席に乗せた。
ドーラ、汽笛を鳴らせと。
いつか大きなトラックを運転する時、思い出して。
私がハンドルを握らせたこと。

あなたは私と暮らすより、
兄さんと暮らす方が、ずっとしあわせになるわ。
私に会いたい時は、2人で撮ったあの写真を見てね。
いつかあなたが私のことを忘れるのが恐い。
父に会いたいわ。
やり直したいのよ。     ドーラより

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 代筆とはいえ、毎日手紙をしたためているドーラが、エンディングで「手紙を書かない私が、あなたには手紙を書きます」と告白するあたりに、手紙が私たちにとってどのようなものとしてあるのか、あり得るのかを暗示しているように思える。と同時に、ジョズエとドーラのこの旅路が、どのような旅であったのかも記されていると言えるだろう。

 ちなみに、清さんは、「手紙を書きたいという欲望」の最後で、その欲望の向かうところを次のように言う。 

 〈書く〉試みは、本質的に、他者に対して「自分が経験することを伝え(意味づけし)よう」という関係に入ることをとおして、私を私に対して存在させようとし、私を私自身に到達させようとする試みなのです。そしてまた、そうした自分自身との緊張関係を生きる試みだからこそ、私は〈書く〉という試みのなかで「証人」たるにふさわしい人間へと自分をつくり変え、他者に向かって送り出すのです。 

 あっという間に今年も12月。もうすぐ冬休みにクリスマス、そしてお正月と、子どもたちにとってはとても楽しいときを迎える。この年末年始は、「セントラル・ステーション」を観ながら、新年の挨拶を書いてみようかと思う。( キヨ )