mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

12月2日 「渋面」の 渋い思い出

 私は山本周五郎の作品を好んで読む。描かれる人間がだれもかれも好きなのだ。
 先日、行きつけの古本屋でまだ読んでいない全集未収録作品集1冊を買ってきて読んでいる。短編集だ。
 その中の1編の中に、「ひどく渋面してるでねが、腹こでも痛めるだら薬でものむべき、それとも江戸を追出されて途方にくれてるだか」という会話の1文があり、「渋面」に「しぶづら」とルビがふってあった。津軽藩が舞台の「いっぱだ者物語」。

 この1文の中の「渋面」(しぶづら)が私を60年前にもどした。20代後半で、中学に勤めていた時になる。
 そのあるときの国語の授業。作品名はすっかり忘れてしまったが、単語「渋面」だけは今も忘れていない。上記の短編の「渋面」ひとつが急に飛び込んだのもそのためだ。
 その作品の授業の1時間目、文中に出てきた「渋面」を私は「しぶづら」と読んだ。小さいとき、母親に「そんなシブヅラをするんでない!」と何度か叱られたことがあったので、迷うことなくそう読んだのだった。

 その後の休み時間、教室にもどってきたS子たちが、「先生! 先生が『シブヅラ』と読んだ漢字、3組の人がね、O先生は『ジュウメンと読んだ』と言っていたよ。どっちなの?」と言ってきた。幸いなことに、なんでも話しかけてくる子どもたちだった。
 そう言われて、私はすぐハッとした。あの文は会話文ではなく説明の文だ、母親の話し方ではいけない、音読みが正しいのだ、と。
 すぐS子たちに、「オレの読み方がまちがいで、O先生の読み方が正しい。ありがとう、みんなにも『じゅうめん』と直してもらうよう、すぐ言う」と言い、次の時間に訂正したうえで、教えてくれたS子たちに全員の前で礼を言った。

 私は私で、学年4クラスの国語を2人で担当していてよかったと思った。そうでないと誤読のままになってしまっただろう。また、なんでも話してくる子どもたちと一緒だったので助けられたとも思った。とくに、(この仕事は、なんでも言い合える子どもたちとの関係を何よりも大事につくりあげていくように心がけないといけない)と強く思ったのもこのときだった。
 教師としての仕事での、このような失敗は数え切れないほどある。「A男に会ったらあのことを」「B子に会ったらあのことを」・・・と詫びなければいけないことが体のそちこちに張り付いている。(詫びてから遠出をしたいものだ)と思うが残り時間が少なくなっているのに、その機会はなかなかつかめていない・・・。

 山本周五郎によると「いっぱだ者」の意は「奇妙な人間」のことのようだ。不特定の方が目にする場に、こんな恥ずかしいことを書くのは私が“いっぱだ者”ということか、それとも歳のせいか。( 春 )