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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

10月23日

 前回、「教師・三島孚滋雄」のまとめに四苦八苦していることを書いた。気は急くのだが資料不足は依然とつづき、未だにほとんど動けないでいる。

 頭をかかえているうちに、かつて中村敏弘さんが「教育実践検討サークル」(国土社)の中に、刈田サークルの機関誌についてふれており、そこに三島の名があったことを思い出した。

 さっそく、中村さんに「『刈田』を見せてほしい」と手紙をかいたら、間おかず、「自分のは探しても見つからず、Sさんに連絡して借りることができたものを送る」と、段ボールの宅急便が届いた。しかも、三島に関する部分にはすべて付箋がしてあった。

 段ボールを開けると、第1号の表紙がすぐ顔を見せた。

 紙は黄色になり、留め金はすっかり錆びていた。題字は大きく「刈田」とすわり、「かった」と下にルビがふられ、その下に、小さい文字で、

 文章というものは、それを書く人間が、自分の記憶しておきたいことを、たしかに残しておきたい必要やだれかにつたえたい望みを何らかの形でそのままあらわしておきたいという欲望からはじまったものであろう。いわば、それは、人間のいのち(生き方、生活)のひろがりをもとめる手段である。人間は文章表現を手段として、自分のいのちを時間的にも社会的にもひろげていく、つまり、こういう手段をもってそだっていくのである。(さがわ みちお) 

と書かれ、その下に、やや大きめに、  第1号  教科研 刈田のつどい
そして小さく  1953・11・3  と発行年月日が書いてあった。63年前になる。

 最終号には残念なことに発行年は入っていないが、その前の号は66年9月18日となっていた。すべての号がガリ版刷りである。

 以来、毎日、目的の三島関係以外のページをめくりつづけている。 

 1959年11月3日に「号外」が出されていて、「刈田」の「いままで」と「いま」が書かれている。署名入りではないが、私の推測ではYさんが書いたものだ。

 その号外は、「今から8年前に、戦前からの伝統を継承する教育科学研究会が創刊した雑誌『教育』を手にして『毎月この雑誌を読み合い、もろもろの教育の問題などを話し合おうじゃないか。』というのであつまったのは、A さん、Bさん、Cさんの3人でした。・・・そして、若い人の考えていることも聞かねばなるまいということになって誘われたのが私たち・・・」と始まり、その後のメンバーの動きが書かれ、「いま」の方にすすんでいた。

 この号外だけでもいろいろなことを考えさせられた。 

 「A・B・Cさん」としたのは私で、実際は実名で書かれていた。この方たちは、今でいう管理職、ないしはすぐそうなる方たちである。その方たちが雑誌『教育』を読みながら教育を考えようと最初に集まったのが「刈田サークル」の始まりということだ。そして、「若い人の考えも聞かなくちゃ・・・」ということで若い教師たちを誘い、私もその中のひとりだとYさんは書いている。

 これらだけでも到底今考えられないこと。どこで、どうして、こんなにも違ってきたのだろう・・・。(この「刈田」のスタート時にかえることができたら学校は大きく変わるだろうなあ~)と思いながら文字の薄れた機関誌を読み続けている。( 春 )