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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

河北新報「持論自論」に、春さんの投稿が載る

 もっと早く紹介しようと思いながら遅くなってしまいました。(春)さんが河北新報の持論自論に投稿した文章が、9月11日に掲載されました。すでにお読みの方もおられると思いますが、多くの人に読んでほしいと思い、ここに載せることにしました。

タイトルは、「真の子どもの幸せ 尊重する心も育成必要」。

 1877年に来日したアメリカの動物学者モースは、日本の印象を著書『日本その日その日』の中で、次のように書いている。 

 「世界中で日本ほど、子どもが大切に取り扱われ、そして子どものために深い注意が払われる国はない。ニコニコしているところから判断すると、子どもたちは朝から晩まで幸福であるらしい」

 モースが目にした子どもたちの日常は、今の子どもたちには理解不能かもしれない。それでも、モースの目には、どの国の子どもたちより好ましく映っていた。

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 それはなぜか。どんなに貧しい暮らしの中でも、どんなにつらい家業の手伝いがあっても、子どもたちだけの世界を持つことができたことが理由の一つではないかと私は思う。私が今の子どもたちの様子を見聞きして心配になるのは、この点に重なる。

 大人が子どもたちを囲い込む傾向は年々強くなっており、子どもを守るべき学校や家庭においても、世の流れの中に子どもを押し込むことに懸命になっている。だが、それは子どもを本当に幸せすることとは思えない。

 アメリカに『リトル・トリー』という物語がある。チェロキーインディアンの血を引く著者フォレスト・カーターの自伝的要素を含む書だという。刊行はモース来日から約100年後なので、モースは知らない。モースがもし同じアメリカ人のリトル・トリー少年を知り、彼と共に暮らす親代わりの祖父母の少年への関わり方を知ったら、どんな評価をしただろう。

 リトル・トリーの住む世界は大自然である。例えば、小川は無数の生き物が見られる生命の川であり、小さな生命たちを前にするリトル・トリーには楽園であった。チェロキーの大人たちは、子どもの森や川での遊びについて絶対に叱ったりしなかった。かつてモースの見た日本も同様だったはずだが、歳月が子どもの世界を変えてしまった。何が日本を変えたのか。その答えを『リトル・トリー』から一つ取り出してみる。祖父の友人のワインさんの言葉だ。

 「教育というのは二つの幹を持った一本の木のようなものだ。ひとつの幹は技術を養うもので、自分の商売を切りひらいてゆくのに応用できる知識を育てる・・・しかし、技術だけでは駄目で、もうひとつの幹も大事にしなくてはいけない。それは、ものごとを尊敬する心を育てることだ」

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  現在の日本の子どもたちの危機は、ワインさんの言葉で言えば、大人が二つの幹を無視して一つ目の幹にのみしがみつくように仕向け、あらゆる場で叱咤激励していることにあるのではないか。子どもたちに、二つの幹を、大人の責任として保障しなければならない。それは、この生きづらい、すさんだ社会を、モースの目に映ったかつての日本に取り戻すことにもつながることと思える。

 しかし、次期学習指導要領案が公表され、それを報じる8月2日の新聞の見出しにあったのは「夏休み短縮」「下校を繰り下げ」であった。

 月をまたがず、9月中に載せることができてよかった。

 ところで、タイトルをどうつけるかは、この投稿の趣旨がどこにあるのかということと切り離せないはず。新聞の編集担当は、春さんの趣旨をタイトルのようにとったのだろう。春さんが「子どもの幸せとは何か」を考えながら、この文章を書き投稿したことはわかるが、つぎに「尊重する心も育成必要」という言葉がくるのは? いま一つというか、ちょっと的が外れているようにも思うんだけど・・・。

(キヨ)