mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

「夏休み こくご講座」宮川健郎さん講演に触発されて

 「夏休み こくご講座」で、講師の宮川健郎さんは、戦後児童文学の成立から今日までを、一つは「語り手」の発見とその展開という点から、もう一つは、散文的な言葉を用い社会と子どもを描くようになった児童文学が、日本社会の変化と子どもが抱える困難の複雑化の中で、子どもと社会をどのように描いてきたのか。そしてそれが今どのような状況にあるのかを話してくれた。

 講演の最後では、ちょっと時間が足りないようであったが「語り手の創造」という話をされた。「語り手の創造」とは何だろう? 中高生に授業する形式で書かれた著書『物語もっと深読み教室』(岩波ジュニア新書)を引いて、次のように語った。 

 私たちは、みんな、現実のなかで生きています。その現実をふまえて書くことになるわけだけれど、書くという、その場所は、現実とはまた別の場所です。現実とは別の場所で、現実の時間や空間とは別の時間や空間を創造することによって、かえって、現実を語ることができる。それが「書くこと」ですよね。―(中略)―

 みなさんも、表現者になるならば、現実とはちがう場所に立たなければならない。「書くこと」の場所とでもいうべき、そこに立つことができるのは、現実を生きている自分ではない。自分とは別の語り手を想像して、その語り手に語らせるんです。語り手は、実際の自分より、ちょっとおしゃべりかもしれない。実際の自分より、ゆっくりと聡明かもしれない。自分のなかに、語り手というキャラクターを生み出すことができたとき、その人は、表現者になれる。「書くこと」は、現実の再構成にほかなりません。その意味で、どんな文章でも、書かれたものは、現実への批評を含んでいると思います。

  つまり、子ども自身が「語り手」を創造し、書くことを通じて、この生きにくい現実を再構成し相対化することで、生きにくい現実を生きる術(生きにくさの抜け道)を身につけてほしいという。

 と同時に、このような「語り手の創造」は、自分のことをみつめ自分のことを自分として書く生活綴方の考え方や思想とはずいぶん違うかもしれない。生きづらさを抱えた子どもが自分のことを自分として書くことは非常に苦しい。語り手を創造することで書くことができるのではないか。そのことによって生きにくい現実を抜け出し、再構成することができるのではないか。宮川先生は、「語り手の創造」と生活綴方をあえて対比させ、問いを投げかけて講演は終わった。その後の参加者との質疑では、この点にかかわってのやり取りは特になかったと記憶しているが、とても刺激的で、そのあとずっとその問いが頭の中をぐるぐると駆け回っている。 

 というのも一つには、最近 制野俊弘さんの『命と向きあう教室』(ポプラ社)を読んだからだ。この本は、東日本大震災で多くの死者と甚大な被害を出した東松島の中学で、体育教師の制野さんが中心となって取り組んだ運動会や踊り、そしてNHKスペシャルで放映された「命の授業」などをまとめたものだ。書かれた実践記録は、まさに生活綴方的だ。震災時のことも含め子どもたちの願いや思い、苦しみや喜びが文章で綴られている。宮川さんは、自分のことを自分で綴るとことは苦しいという。確かに、生徒の書いた作文の中にも、書くのが辛かったり苦しかったりしたと出てくる。でも、現に自分のことを自分の言葉として綴り語る子どもたちがいる。そして、この子たちは、この本を読むかぎり、現実の生きづらさや苦しさを受けとめ、今を、そしてこれからを生きていこうとしているように感じるのだ。宮川先生は制野さんのような実践をどう読み、どう位置づけるのだろうか、意見や考えを聴きたいなあと思うのだった。

 二つには、講演を聴いた後で、ずいぶん前に読んだ本のなかに書かれていたサルトルの文章を改めて見つけたからだ。ちょっと長くなるが、次のような文章だ。

 ・・・・・・実際は、自分でものを書きたいからこそ人は本を読むのです。いずれにしても、本を読むということは、いくぶんかは、書きなおすことなのです。

 そうです、この観点からすると、人びとは、自分の人生を表現したいという欲求が自分にあることを発見しつつあります。・・・・・・私が言いたいのは、人びと - すべての人びとが - つぎのことを望んでいる、ということです、すなわち、彼らの体験したこの人生、彼らのものにほかならぬ人生が、その薄暗い部分(というのも彼らはそのなかに首を突っこんでいるので)をも全部ふくめて、呈示された人生ともなることを。この人生が、これを圧し潰すいっさいのものからとき放たれることを。この人生を圧し潰す理由を、表現を通じて、人生のとる姿の非本質的な条件に帰し、これによって人生が本質的なものとなることを。誰もが書きたいと望んでいる、なぜなら誰もが意味する者となる欲求、自分が経験することを伝え(意味づけし)ようとする欲求を持っているからです。

                (サルトル『シチュアシオンⅨ』 より)

 宮川さんは、今回の講演を作品の語り手に注目し、作品を「読む」ということから児童文学の話を起こしながら、最後は作品を「書く」ということで話を終えた。サルトルは、その「読む」ことと「書く」こと、そこに何があるのかを示唆しているのではないだろうか。

 当日のレジュメには、「『語り手の創造』という考え方は、『生活綴方』と対立する?」と、あえてクエスチョンを付けて話を終えるとき、その先の話をもっともっと聞いてみたい、話してみたいと思った。  (キヨ)