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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

おすすめ映画 是枝監督『海よりもまだ深く』

 是枝監督の最新作『海よりもまだ深く』を見てきた。

 監督自身も住んでいたという東京は清瀬の団地で映画は撮影された。私も高校まで両親と千葉の団地で過ごしたこともあり、映画に映し出される団地の風景は、とても懐かしい。団地と団地のあいだの芝生、今は使われなくなったダストシュート、団地わきの自転車置き場、牛乳受けの下に隠してある合鍵(我が家はガスや水道の検針メーターが格納されているメーターボックスの中だったが)、晴れた日のベランダに垂れ下がる掛け布団や敷布団の数々、どれも私の過ごした団地と同じだ。映像を見ていると、日に干した布団の陽の匂いや芝生から立ち上る草いきれさえ感じる。

 団地は、50年代後半から70年代の高度経済成長期に、地方から一旗揚げいつかは故郷に錦を飾ろうと大都市にやってきた若い働き手の受け皿となった。国民全体が、一つの大きな夢を見られた時代なのかもしれない。そして団地は、そんな時代の象徴だ。その夢の詰まっていた団地も、今や建物の老朽化や住民の高齢化・減少などの悩みや課題を抱え、以前のような賑わいや活気が失われてきている。映画はそんな思ってもいなかった団地の今を、さりげない描写や会話で見せてくれる。 

 そんな中で、改めて目を惹いたのは団地の植え込みや、棟の高さほどに生長した木々の豊かさだった。高齢者が増え子どもたちが減少するなか、団地からはにぎやかに遊びまわる子どもたちの声は消えた。以前にはあった、あのはじけるようないのちのざわめきや息吹は失われて、団地はひっそりと静まりかえり寂しげだ。ところがスクリーンは、そのような団地の衰退を映し出すかたわらで、団地をいろどり囲んでいる植え込みや木々の緑の豊かさを写し出してしまっている。緑に囲まれた団地は、静かないのちのざわめきに満ちている。歳をとり人生の終わりを意識せざるを得ない人々の暮らすその世界が、実はいのちに満ちて輝いてみえるのだ。団地はまだまだその魅力を、その生命力を失っていないのかもしれない。

 そして、このような団地世界を育んできたのが、実は一戸建てや分譲団地への引っ越しを夢みながら、それを諦めた淑子たち住人だ。ダメ息子の良多に母・淑子が、「幸せってのはね、何かを諦めないと手にできないものなのよ」と語りかけるとき、淑子が人生のなかで諦め、断念してきた多くのもののさらにその先に、何を見ようとし何を見てきたのかを語っているように感じた。 (キヨ)

             末と未

                    吉野弘

 

      末と未を書きちがえる人がいます。しかし末も未も、

     もともとは同じ「木末」(こずえ)の意味であったと辞書

     には書いてあります。

     「梢」が、木の「終末」か「未来」かと聞かれたら、あ

     なたはどうお答えになりますか。ことを時間に限ってみ

     ますと、明日とか未来という時間が、常に末路に向かっ

     ていることは否定のしようがありません。未来は末路の

     中に含まれています。

      たとえば、ここに一人の落ち武者がいるとします。そ

     の前に見えかくれする山路、人目を避けてその山路をた

     どるときの、一歩先、一刻あとは、いったい未来でしょ

     うか末路でしょうか。だれにも答えられません。生き延

     びて再び一旗挙げたときはじめて「あのとき見ていた山

     路や、空、雲は未来の中にあったのだな」と言い得るだ

     けです。

      おそらく人間は、どんなに希望のない末路に追い込ま

     れても、そこになおかつ、未来を必死で見ようとするの

     ではないでしょうか。ですから、末と未を書きちがえる

     ことを、一概に避難することはできないようです。

 

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