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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

政治的でない教育は可能か?

 18歳選挙権が認められたのを機に、全国各地の教育委員会が通知などのようなものを次々と出しているようだ。その中で触れられるのが、教師(学校)に対しては、政治的に中立であるようにというのが、おおかたの内容でもある。さて、では政治的に中立な教育とはどういうことか。そこで思い出したのが表記のタイトルの一文である。

著者はこのコーナーでも何度か引用したことがある天声人語子の深代惇郎。出典は天声人語ではなく、彼のエッセーからである。ある中学の先生が京都の桂離宮を見学したときの場面を設定して次のように書いている。少し長くなるが引用する。

一人の先生は美しい庭園を前に、この庭をつくるために封建大名がいかに農民を搾取したかを熱心に説明した。それが歴史の正しい教え方だと、この先生は信じていた。 

もう一人の先生は、これが日本文化の粋である由縁を生徒たちに教えた。このような文化を守ることが民族の義務であることを情熱を込めて語った。 

この二通りの教え方のどちらが正しいのであろうか。あるいは、どちらが政治的に中立なのであろうか。これは厄介な問題だ。 

前者の先生は、封建時代の生産関係を教え、民衆の立場からみるのが正しい歴史観であり、これを故意に省くのはきわめて政治的だと主張するであろう。後者の先生は、唯物史観で割り切って教えるのは義務教育として偏っている。奴隷制の上に築かれたためにギリシャ文明の光が薄れるわけではないと、反論するであろう。

深代はこのように投げかけながら、続いて次のように述べている。

 先ず、教育が党派的であってはいけない、という点に異議を唱える人は少ない。特定の政党を支持するために教育が利用されたり、特定の党派からの指図によって教育がされることに反対する点ではコンセンサスがある。しかし「党派的である」ことと「政治的である」こととは同じではない。もともと教育とは政治的なものであり、政治的でない教育などこの世に存在しないといってもよい。 

では最初に紹介した桂離宮をどう教えるべきかだ。読者ならどうしますか?

「人によって正しさが異なるのはなぜかを教えることの方が、すぐれた教育ではないか」と深代は最後に記しているが。                                                             <仁>