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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

3月28日

 前回、「道徳と教育を考える会」の報告のつもりで、太田さんの膨大な提案資料名を羅列した。その中の一つ「アメリカ教育使節団報告書」は村井実訳の講談社学術文庫からのものであり、私は久しぶりに「村井実」の名を見て、急に在職中、校内の仲間との読書会を思い出した。

 この学習会についてのそもそものことを述べると、まだ元気のよかったA教育出版社が私たちと共催で教育講座を松島でもち、私は全体会のシンポジストのひとりにもなり、謝礼をもらった。それで仲間に2冊の本をプレゼントしたのだが、その1冊がぜひ一緒に読み合いたいと考えていた村井実の「もうひとつの教育」だった。

 それを思い出したのだ。土曜日、子どもを帰すと、三々五々私の教室に集まり、読書会が始まる。仲間たちにはどれだけ残っているかわからないが、私にとっては強く残る思い出のひとつになっている。

 「もうひとつの教育」について、村井はつぎのようなことを言っている。

・・・私はいま、この鐘の音に誘われて、人間にとっての「もうひとつの世界」と、子どもたちの現実の世界での教育との関係を考えています。私がいま泊まっている西ドイツやケルンの町の生活は、一つの世界です。ケルンの町の子どもたちは、毎朝、ランドセルを背負ってこの世界の学校に通っています。それが現実の教育です。だが、じつは、この子どもたちにとっても、知らなければならない「もうひとつの世界」があるのです。その世界は「もうひとつ」とはいっても、一つだけとは限らないでしょう。いつもさらに「もうひとつの世界」があるのでしょう。そして教育は、いつもその世界に向けて開かれていなければならないでしょう。

 日本の子どもたちについていえば、子どもたちが学校で学ぶ事柄は、一つの事柄です。だが、その子どもたちにとって、その世界だけがただ一つの世界であってはなりますまい。実は、「もうひとつの世界」があるということが、不断に知られていなければならないのではないか。・・・教育はいつも、どこまでも、そういう世界に向かって開かれているのでなければ、ほんとうの教育とはいえないのではないでしょうか。

 私が学校の仲間と一緒に考えたかったのは、村井が言っている、このようなことだったのだ。ほとんどの教師は真面目で熱心だ。それだけに、その仕事に忠実であろうとすればするだけ、どうしても限られた狭い世界や価値観の中に無理に引きずり込んでしまわないと気がすまなくなる。そのような囲い込みが成功すると(うまくいった!)と考える。それではいけない、どうすればいいかを、一緒に考えたいと思ったのだった。

 ずいぶん前の話になるが、もしかすると、今ますます「もうひとつの世界」のあることを意識して仕事をしなければならなくなっているのではないだろうか。

                            ( 春 )