mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

3月7日

 昨日の「天声人語」は“微生物”をとりあげていた。SF小説「火星の人」(私は読んでいない)での土づくりの話で、地球からもっていった土を火星の土に少しふりかける。「生きた土に暮らす微生物たちが作物つくりには必要なのだ」とつづく。これは天声人語では序章で、その後は微生物に関するいろんな話に広がっていく。

 「微生物」というと私は反射的に生活科の教科書づくりのこと、G社のHさんを思い出す。教科書は完敗、Hさんは間もなく亡くなった。Hさんは、今でも何かあるとすぐしゃべり合いたいと思うひとりだ。

 ところで、どうして「微生物」がHさんを思い出させるのか。わけはこうだ。

 教科書づくりでの柱のひとつに「循環」を据えた。その「循環」の扱いでは「びせいぶつ」を抜かせない。

 しかし、検定結果の通告では「2年生で『びせいぶつ』とは何事か。これは難しい。中学での学習だ」と修正を求められた。それで「目に見えない生きもの」として再提出すると、これまた、「つまり、言い方を変えても微生物のことではないか!」と教科書調査官に一喝をくらう。

 その後、Hさんの知恵がさえる。1年生の教科書に、「きれいに みえる てでも、/しょくじの まえには/てを あらおう。/めには みえないけれど/ばいきんが ついているかも/しれないから。/ひとの めには みえないけれど/いきて いる ものが いる。」というページをつくり、2年生の「目に見えない生きもの」はそのままにした。

 1年生の「手を洗おう」のなかの「ひとの めには みえないけれど/いきて いる ものが いる。」は文句なしに検定をパス。ということは、2年の「目には見えない生きもの」もそのまま生き残れるということになる。結果として私たちの目指した「循環」は教科書の柱としてすえることができたということになる。

 このことがあってから私は、生きていくうえでの「智恵」の大事さをこれまで以上に考えるようになった。だから、壁を前にするとすぐHさんを思い出し、「微生物」は私のなかでは「智恵」につながっていく。その「智恵」を磨くために、今も時々Hさんとしゃべりたいと思う。( 春 )