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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

2月26日

 最近、Sさんが何かというと「羽仁五郎が~~」とよく口にする。私はきっかけは忘れたが、ある時から手にとることなかった。しかし、Sさんが如何にも愉快そうに名前をあげるので気になりだし、万葉堂から数日前、著書を2冊買ってきた。読み始めたのが「自伝的戦後史」。おもしろい。以前、すぐ遠ざかったのがこの文体、話調だったのではないかと思い出したのだが、今はまったく違和感がない。

 「戦争と知識人」の章に次のようなことを書いていた。

1972年9月の「朝日新聞」の「標的」という囲み記事に、

「去る6月、ストックホルムで開かれた自主人間環境会議人民広場集会のときに、日本の水俣病の患者さんたちが参加した。その折、ストックホルム市民たちは『自分の身代わりの受難者として患者さんたちに対した』という。ところが日本の市民は、恐ろしい目をして患者を咎めるごとく見る。『私に代わって贖罪を受けた生け贄』として比較するストックホルム市民の目との違いに、日本の歪みがまざまざと浮かび上がった」とある。

 つまりエニボデイの問題は、エブリボデイの問題なのだ。だれか一人の人権が侵されているということは、すべての人の問題なのだ。それが英語だと「any」ということと「every」というのが言葉の上でもつながってくるし、論理的にもはっきりするのだが、日本語にはそういう言葉はない。つまり、だれかの問題はすべての人の問題だという言葉の関連がないし、論理的な認識がない。

 なぜそうなったかというと、言葉や論理が強い側の立場で使われてきて、弱い側の立場で使われることがずっと禁じられているからだ。「よこしま」という言葉があるように、ヨコの関連は罪悪、犯罪なのだ。タテの関係は道徳、あるいは政治なのだ。<後略>

 ドキッとしてあわてて自分の今をこれまでを点検する。悔しいが、ストックホルム市民の心とは遠いように思う。読み始めたばかりだが、羽仁はこの調子で進み、弱まることがない。読み終えたときは全身クタクタになっているだろう。

                                ( 春 )