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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

2月1日

 昨日はセンターでの「道徳と教育を考える会」例会日だった。私にとっては道徳の授業をどうするかは直接関係はないが、とくに自分自身を考えるにはたいへんいい場になっている。

 「戦争期日本の道徳意識」「道徳教育観についての調査」が、この日の学習テーマ。

 後者の調査項目のなかに入っていた「~道徳的価値や美徳~」という言葉を目にして、しばらく思い出すことのなかったことが浮かんできた。

 もう40年以上前になると思うが、評論家のMさんが新聞に載せた「祖母の思い出」の文である。小さい頃、おばあちゃんに言われたこととして3つのことを書いていた。 

 1つは、夜のお客さんがお帰りになるとき、足音が聞えなくなってから外灯を消すんだよ。

 2つめは、電話を受けたとき、相手の方が受話器を置いてからこちらの受話器を置くんだよ。

 3つめは、たまたまおじいちゃんと一緒の汽車に乗ることになって家を出るときのこと。おばあちゃんが、「おじいちゃんは1等車でしょう。3等車のあなたを自分の方に来るように言ってくるかもしれません。その時は行ってはなりません。あなたは3等車で行くのです」と。汽車が動き出すと、おじいちゃんの秘書が迎えに来たが言われたとおり行かなかった。また来たが行かないでいると、おじいちゃんが姿を現して「おじいちゃんの方が来れば一緒に行けるんだ」と言い、自分の目的地まで一緒したことがあった。 

 読んだ私はその話が妙に気に入り、今でも覚えているというわけ。覚えているだけでなく、自分への教えとしても大事にしつづけている。それで数少ない強い記憶の一つとしていまだに体にはりついている。

 それを、つい昨日の場でしゃべってしまったが、しゃべりながら、(自分がいいなあ・美しいなあと思っても、他に押しつけたり授業の材料に安易に使うべきではないよなあ・・・)と思ってきた。

 そもそも「道徳的価値」とは何か。その規定がまず難しい。それを国が決めたり特定の人が決めたりすることは大いに危うい。ましてや授業で教えるべきだと安易に考えてはならないと思う。と言いながら、Mさんの「祖母の思い出」は自分にとっては死ぬまで忘れえない話であることも確かだ。“道徳教育”は難しい。( 春 )