mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

11月26日付 春さんの日記に触発されて・・・

 21年前、私は5年生の担任だった。ある日の宿題が発端となってことは進んだ。その宿題とは、47都道府県名を白地図の位置とともに覚えてくること。そしていよいよS杯をかけた47都道府県大会。B4版のわら半紙に都道府県に番号の入った白地図と、その右側に回答欄を添えて配布、「回答欄には宮城県なら宮城、東京都なら東京と書けばよい」と説明し、スタート。全問正解の時は、早く提出した者がS杯と煽った。32名は一斉に机の上の白地図に鉛筆を走らせた。

 まもなく「できた」と真っ先にU君が私の手元に自信あふれる顔で白地図を提出。間髪を入れず次にN君、Mさん、そして次々と祈るような顔をしながら、提出が続いた。全員の提出(3名が忘れたところがあると残念そうに一部空欄のまま提出)を確認した。

 提出順に回答欄を確かめ、いよいよ成績発表。まず全問正解者を報告。そして「優勝・S杯はMさんです。おめでとう」

「なんで?」と不満の声をぶつけてきたのは、当然一番に提出したU君。

 その理由は、U君は北海道の回答欄に北海と書いてきたからだ。2番目のN君は茨城を茨木。Mさんは北海道。しかしU君はじめ他にも北海と書いてきた子どもたちは、おさまらない。

「先生は都・道・府・県は書かないで宮城とか東京とだけ書けば良いと言ったではないか」「そうだ、そうだ」と抗議の声で教室は騒然となった。何の疑いもなく「都道府県まで書かなくて良い」と説明したのだが、彼らの抗議にも一理あることを認めつつ、北海道だけが北海と通常使われない理由が分かるまで、U君の菅井杯を一時預かりにしてその日は終わった。

 放課後の職員室でこの話を同僚に聞いてまわったが、すっきりする答えは誰からも得られなかった。帰宅し家中の関連する書籍をめくっても、どこにも答えがみつからないまま翌日、出勤すると、駐車場にU君が待っていた。「先生、どうでしたか?」が朝の挨拶。

「まだ分からない」と話すと、U君は帰宅後、北海道の道庁に電話をして調べたが、分かる人はいなかったと、残念そうに報告するのだった。同僚の何人かも同じように調べてくれていた。うれしいことだった。

 朝の会でも、何名かの子どもたちが、父や母、兄、姉に聞いて回ったという。さて、どうする?ということで、前日は不在だった校長が市の教育研究会の社会科の責任者であることを伝え、校長に聞いてみることにした。休み時間になると、U君達は走るように校長室へ行き、問題になっていることを校長にたずねた。私は黙ってそばでやりとりを聞いていた。校長も「そうだな、不思議だな」と考え込むと、「帝国書院に知り合いがいるから聞いてみてあげる」「放課後、また校長室に来るように」と、結論は先送りになる。放課後、再度結果を聞きにいくと、「帝国書院でも分からないそうだ」「国土地理院に聞いてみてはどうだろう」ということ。当然のように、その日の放課後、U君達はU君の家に集結し、国土地理院に電話で調査。しかし、ここも埒があかず、この話は私への宿題ということでいったん幕を閉じるより仕方なかった。こうして北海道問題は未解決のままになってしまった。パソコンもまだ学校にも個人にも普及していない時代だった。

 そして翌々年、6年に転校し、中学生になったU君から年賀状が届いた。新年のあいさつの後に、「先生、宿題はまだですか?」と催促の一文が書かれていた。「もう少しお待ちください」と返礼の年賀状を書いた。

 それから1~2年後に、NHKで『日本人の質問』というクイズ番組が始まった。司会は古舘伊知郎だ。私はU君たちからの宿題を、この番組に委ね、封書でNHKに送付した。毎週のように、期待して番組を見るのだが、なかなか取り上げられない。なぜ取り上げられないのかの返事もない。

 2年前、久しぶりにU君からの年賀状が届く。今、仙台市立病院で医師をしている。結婚してお子さんも生まれた、とのこと。そして「宿題は?」の一言が添えてあった。

 過日、電話でU君と話すことができた。彼は笑いながら、「そうですか」「謎を追うっていいことですね」と励ましてくれるのだった。

 年末を控え、今年こそと再び北海道調べを再開した。そしてなんと答えが見つかった。図書館などで調べても埒があかない。21年前にU君達が電話で調べた北海道庁に電話。すると総務部に回され、Sさんが電話口に出て、経緯が分かる資料があるので送って下さるとのこと。そして12月初め、丁寧に調べてまとめた文書が届いたのだった。年賀状の前にU君へのクリスマスプレゼントにすることにした。菅井杯も添えて。

 そして21年前の職員室の動きを思い出しながら、今、このような職員室はどれくらいあるのだろうと、学校の姿を考える原点の一つにもなっている。 

          21年間もいい加減に対応していた自省を込めて( 仁 )