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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

10月29日

 荒垣秀雄のエッセー「季節の余白」を読んでいたら、「川の本能」という短い文があった。読んで、3・11復興のことを考えた。一緒に考えてもらうことを願ってそのまま紹介する。なにしろ一分の隙もない文を縮めることは私にはできないので、常より長くなってしまうがお許しを。

 

 鉄砲水で、川は昔の姿にもどった ――とはこの間の26号台風で流された梅ヶ島温泉(静岡県)でのことである。ある旅館の主人は「家のそばに樹齢五十年にもなるケヤキの大木がはえていたので安心していたが、いまになってみればやはり川の中だったんですね」と語っている。

 川の流れにはよくそういうことがある。河川が改修されて、それが本来の川筋だと思っていると、洪水で堤がこわされ、川の流れが変ってしまう。古老にきくとそれが昔の流路だという。五十年の樹齢が語るように長い間おとなしく陸地になりすましていたものが、一夜の豪雨で昔の本能を呼びさまされ、狂暴性を発揮して人間の造ったものをぶちこわし、奔放自在な昔の流れに回帰する。

 やはり、川は生きものだなと思う。

 治山治水は、狂暴な野獣のような自然の川を飼いならして、人間に従順な家畜化することだろうが、川の本能を無視して、あまり自然にさからってはいかぬものらしい。なだめたり、すかしたりして、自然の掟を尊重しながら、人工に妥協させることが大切たようだ。

 阿蘇山に降る雨は南側の白川と北側の黒川と二本の流れになり合流して外輪山を破り熊本市にはいるが、加藤清正はこの二つの川に"時差"を設けたそうだ。片方の川をうねらせたり、幾筋にもして沼に入れたりして遊ばせて、合流点に達するのを遅らせる。それで、阿蘇に降った集中豪雨が同時に合流して急激に増水するのを避けた。つまりラッシュ時の川の"時差出勤"である。

 ところが戦後の改修工事で、その曲りくねりをムダなこととばかりに、川筋を真っすぐにショートカットしたり、分流を廃止したりした。そのため二つの川に"時差"がなくなって昭和二十八年の大洪水となり、森の都熊本は阿蘇から押出す火山灰に埋まり"泥の都"と化した。百三十万立方メートルの泥を取除くのに延べ四十五万台ものトラックを要した。

 洪水を早く下流に流すばかりが能ではなく、出水を上中流地域に遊水、停滞、貯溜させ、つまり道草をくわせて、水を走らせず、歩かせて、時間をかせがせることが、下流の洪水を救う道で、曲りくねった流れはムダではなく、自然の暴威をなだめすかす知恵だったのである。

 武田信玄のいわゆる信玄堤もそうだ。釜無川と御勅使川の合流点に築いた信玄堤は、川に沿って並行する一本の長堤ではなく、一定の角度をもたせて切れ切れになっている不連続堤なのだ。雁が空を飛ぶ形でもあり、八ツ橋式につながり、霞がたなびいているような霞堤ともいわれる。わざと水を溢れさす仕掛けである。堤防と堤防との切れ目から水の増水をなしくずしに減らす。川の水が引き始めると堤防の間から水が川にもどるので、田畑がいつまでも冠水しているということもない。昭和三十四年の7号、15号台風で、他の堤防も国道も跡形もなくこわれたが信玄堤はビクともせず、四百年間の健在を誇っている。

 清正の乗越え堤も同じような考え方だ。菊池川が増水すると、わざと水がジワジワと堤防を乗り越えて溢れ出るようにし、なしくずしに減水させる仕掛けである。堤の内外には竹などの水防林を造り、堤の根元が掘れたり流木や岩石がぶつかるのを防ぐとともに、田畑には土砂が流れこまぬようにしてある。

 当時の土木技術が幼稚であったせいもあろうが、大自然の暴威に対する人力の限界というものを心得ていた点が賢いと思う。川の暴力に対して真正面から立ち向わず、なだめたり、すかしたり、だましだましたりしてその怒りをやわらげ、むしろ水を制するに水を以てして、災害を最小限にとどめようとした。それは自然に対して謙虚な心にも通じる。人間は万能で自然を征服できる、などと思いあがることがいちばん危険なのではないか。

 

以上が「川の本能」の全文である。他人の文を勝手に使ってこんなことを言うのは気がひけるが、「川」に限らず身の回りを見まわしてほしい、3・11後の歩みを考えてみてほしい、自然と人間の関係を考えてみてほしい。( 春 )