テレビのニュースは、あまり見たいと思わなくなっている。「あの世が近くなったせいなのさ」と笑われそうだが、理由は、あまりに嫌な事件が多すぎ、それをいち早く報じるのがニュースの命みたいに見せつけ聞かせつづけられるのに参っているのだ。しかも、ひとつの事件が起きると、ごていねいに、動きがなければ「動きがない」と知らせてくれる。事にもよるが、(いいかげんにしてくれ)と思う。
30分なら30分のニュース番組のなかで、(人間でよかったなあ、生きていてよかったなあと思わせるようなネタはないのか)と、しょっちゅう心の中で叫んでいる。
それにしても、なんてひどい社会になったものか、こんな社会に誰がしたのだろう。生きにくさ、不安感がただよっていることがその理由のひとつにまちがいはない。
国政に関しては、「安心・安全な国家」とは嫌になるくらい耳にするが、「安心・安全な社会」とはついぞ聞いたことがない。安心して生きられる社会を取りもどすことは政治とは無関係なのか。そんなはずはない。安保法案を成立させようとしゃかりきになっているぐらい、力をいれてほしいものだ。
先日、亡くなった鶴見俊輔さんが、しばらく前に新聞に次のようなことを書いていた。
~「国家社会のためにがんばってください」と子どものころに聞いて、変な言葉だなと思っていた。15歳でアメリカに行って、これを英語で言うとものすごく変なんだ。国家と社会は対等の言葉ではないのだから。動物にも社会があるが、国家はない。言葉を使う前提となる理解を欠いたまま言葉を使い続けていることが、日本の政治にすごく影響している。国家より先に社会はすでにあり、国家の中にいくつもの社会はあるのに、社会をつぶして何でも国家本位になると思っている。これが日本のインテリの伝統になっている。
残り少ない時間を、日本に生まれてよかった、これまで生きててよかったと思いたい。いや、オレだけ思っているのではあるまい。( 春 )