何かあるたびに、もの探しがたいへんだ。紙袋やファイルの山に囲まれているからだ。
今日、取り出した紙袋から、かつて教科書づくりを一緒にやり、自分にとっての教師の仕事の大きな軌道修正を私に迫ったHさんからの手紙が見つかった。
そのなかでHさんは、
夏はつらい日々です。
敗戦の年だからなのでしょうか。
採択時という教科書会社の故なのでしょうか。
と書いていた。
3行目は、教科書つくりに関わったということで、私にとっても今も消すことのできない辛い事実となっている。
生活科が小学校に新しい教科として入ることになった時、「戦後初めて新しい教科が誕生する。この教科書をつくりたい。ヒトが人になるための本を。『ものの根元を考える』という日本のいままでの教育システムのなかで欠落していたところを埋めるのが教育再生への一つの道、そして、子どもを人として育てるために欠かすことの視点。そんな教科書をつくりたい。力を貸してくれ!」と、唐突に言われた時のことを忘れない。
Hさんは一歩も引かなかった。とうとう負けてしまった私は、仲間に一緒に仕事をしてほしいと頼んだ。みな受けてくれ、1988年からほぼ毎日曜日、時には土日の合宿と、70回ぐらいの編集会議をもった。
なんとかぎりぎり検定に通ることができた「ヒトが人になるための本」は採択で惨敗。
このHさんの手紙は、採択の翌年の夏 書かれたもの。
手紙は、「このごろ“老い”を感じております。したしいものがだんだんなくなって、身辺が軽くなってきました。」で結ばれている。
この教科書づくりに参加した私に教師として残された時間は数年しかなかった。この数年を「ものの根元を考える」授業づくりにかけようと思った。それが、Hさんに応えることであり、ほとんど見向きもされなかった教科書を少しでも知ってもらう仕事であろうと思った。
そんな私にとって、それ以降のいわゆる「教科書問題」は、どうしても体内への入りがよくない。(「どうして不熱心なんだアイツは」と思われているだろうな)と思うのだが、体がうまく動かないのだ。( 春 )