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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

6月10日

 先日、詩人・長田弘の訃報の記事にびっくりした。私よりも若い。まだまだ言葉の刺激を与えてもらえるものと思っていたのに。

 いま、彼が1980年代前半に出した「詩人であること」を読み返している。どこを読んでもぜんぜん古くない。読みながらしょっちゅう立ち止まってしまうのでなかなか進まない。しだいにあまり進まないようにブレーキをかけるようになったというのが当っているかもしれない。

 話はそれてしまうが、長田の文の中に「石碑を一人ひとりの死者のために建てるようになったのは新しいことである。・・・日清戦争の頃から、急に個人のものが多くなった」という柳田国男の言葉を引いて、「この言葉にはじめてふれたとき、おもわずハッとしたことをおぼえている」とあった。ここを読んで私も長田と同じくハッとし、瞬間、半世紀以上も前の郷里の、集落を見下ろせる山上の墓地を思い出した。現在は隣の集落にある寺の墓地に移り、全戸が代々碑になってしまったが、山上にあるときはすべて個人碑だった。

 私は1942年小学校入学だったが、終戦までの4年間、四季の変化をクッキリと感じさせられるほかは、ほとんど何も変わることのない眠っているような静かなこの地で、2年生ぐらいから年ごとにもっとも変化が激しくなっていったのが山上の墓地だった。埋葬直後がわかる白旗がどんどん増えていき、それがいつの間にか石碑に変わっていった。その数は、とても60数戸の集落の墓地とは思えないほどの増え方だった。

 私は、墓地に行くたびに新しい石碑を巡って、年令を確かめて歩いた。ほとんどが20才前後、顔も浮かんできた。自分の将来と結びつけて考えることまではしなかったが、ひと巡りして戻るとなんとなくおとなしい自分になるのだった。母親は何も口にしなかった。戦地の父親のことを思っていたのだろうか。

 山上に墓地がある時は、戦後であろうと墓参し手を合わせるたびに、死者と自分の関係で語り合っていた。しかし、代々碑になると、石碑との距離が遠くなり、その前に立っても何も語らなくなった。手を合わせる自分も眠る人々に特別語ることなく手を合わせて終わってしまっている。

 長田は、1937年の大阪毎日新聞学芸欄の1年間を時系列でうまく拾い上げていた。見事に見える歴史だ。その最後を、中井正一が好んで使った「(ああ、そうであったのか)それが人知の極地である」を印象的な言葉として取り上げていた。

 (ああ、そうであったのか)、なるほど、人ゆえに自分の生あるうち、忘れずに体に張り付けておきたい。<春>