mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

2月27日

2015年2月27日

 休みを利用して、なんとなくなのだが、書棚から「子供誌」(高田宏著)を取り出してゴロゴロしながら読んだ。雑誌に連載後の1992年12月に単行本として出されたもので、私が手にしてからも15・6年になる。年を重ねているせいか、大人のことも気になるがそれ以上に子どものことがいろいろ気になっているので、この本を手にしていた時間は、今の私にはたいへん貴重な時間になった。

 たとえば、高田は次のようなことを書いている。長いがそのまま紹介する。

ぼくたちの社会には、子供のような大人もいれば、大人のような子供もいる。マリ-・ウィン著「子ども時代を失ったこどもたち」は、ここ230年のアメリカ社会の子供たちが大人との境界を急速に失って、幼いままに大人になってしまっている情況を描いているのだが、それはアメリカ社会に特異ななだれ現象だとしても、ぼくの生きている日本社会をふくめて近代社会というものでは、大人と子供の境界が見えにくくなっていることはたしかだ。

 大人からの、子供への畏れも、そのぶん薄れているようだ。子供はかつて、大人にはない霊力を持つ者と見られていた。たとえば、諏訪神社御柱祭では、御柱曳行と同時に騎馬行列が行われ、その騎馬大将になるのは、78歳の少年と決まっている。子供に備わる霊力が勝利をもたらすと信じられてきたからなのだが、いまではそれは形式だけのことになり、飾り立てた白馬に武者姿で乗せられている子供はくたびれてあくびをし、馬のわきに付き添っている両親がはらはらしているだけの光景だ。そこにはもう霊の力はない。馬上の少年はたしかに幼いが、彼の中にあるのは、大人にとって不可解な『子供』というものではなく、大人の諒解可能な部分がむしろ大きいだろう。たとえば、彼は両親と同じテレビを見て育ってきているのだから。それだけでもすでに大人との歴然とした境界は失われている。

 子どもと大人の境界が見えにくくなってきていることは決して喜ばしいことではないだろう。にもかかわらず、大人は「早く目を出せカキのタネ」とせっせと水やりをしている。

 そこから現れている心配な子どもの出来事がいろいろなところにみられる。そのうえ、それに輪をかけるようなことだけが教育界に現れつづけている。これを私たち全体の危機ととらえないとたいへんなことになると思う私は世の流れをあまりに斜めに見過ぎていることになるのだろうか。