2014年12月17日
昨日、小牛田農林高校に行ってきた。「国語・英語協同授業」を観せていただくためだった。私は2回目だ。
教材は「100万回生きたねこ」。その最後の場面の授業。
いただいた参観者のための授業の案内プリントには、国語のTさんと英語のS さんがそれぞれ「このような授業をするようになった動機」を書いていた。お二人ともに、両方の言語が作用し合って、両方の力を伸ばせると考えて始めている。
最初の時間を観てしばらくたっていたのだが、生徒の変わりようには驚かされた。最初の国語にすんなりと入っていった生徒たちは、何事もなく英語にも入っていった。同じ教室で、教材の同じ部分を扱っているということもあるだろうが、これまで(「7月1日にスタートし、本日が16回最後の授業となる」と書いてあった。)の授業の流れに生徒はすっぽりと入りこんでいたのだ。
2教科の教師が同じ教材を使って、ここまで一緒に授業を追求し合うというのを観るというのは初めてだ。耳にしたこともない。
教育は創造の仕事と言われるが、このような創造ができることを私は考えたこともなかった。
国語の授業が、英語の授業に生きていることは英語の時間の生徒の動きがよく物語っていた。
授業を観ながら、英語が小学校に入ってきて、それがどんどん学年が下がっていることが浮かんだ。少なくとも小牛田の実践は、現在の英語教育の早期化に問題提起をしていると言える。異を唱えるために始めたものでは決してない。しかし、その実践は見過ごせない提起をしている。なにしろ、一人ひとりの生徒の感想が英語教育はどうあればいいかをよく語ってくれている。(26日発行予定のセンターつうしん77号別冊にSさんのレポートを使わせてもらったのでぜひ読んでほしい)。
この授業で教えてもらったもう一つは、お二人がその共通テキストに「100万回生きたねこ」を選んだことだ。これも、この国語・英語協同授業を実のあるものにした大きな要因であろうと思った。テキストに何を選ぶかというのは、専門職としての教師の譲ることのできない大きな仕事であるということだ。
最後にもうひとつ、お二人は、文学研究者の小森陽一さんに教えを乞い、小森さんの応援を受けてこの仕事をすすめたことだ。その道の専門家の教えを受けることの大事さを授業実践は私たちに随所で示してくれた。これもまた、現在の学校からみられなくなっていることであり、積極的に真似たい姿勢である。
教師のあり方をいろいろ考えさせていただいた1日だった。