2014年9月10日
この1週間、テニスの錦織選手の活躍で大騒ぎだった。優勝こそ逸したが、世界4大大会のひとつ全米準優勝は拍手喝采だ。昨夜などは、地名が「錦織」ということで、私の郷里、旧「錦織村」の荒れたテニスコートがテレビにちらっと顔を見せていた。地名が選手と同じ名ということだけだ。(こんなところまで探しあてて映すというのも仕事か)と、岩手県境の北上川沿いまで足を運んだ取材者がちょっと気の毒になった。
ところで、日曜日の夕方の番組に出演したあるコメンテーターが、
「錦織選手は『ゆとり世代』であり、彼だけでなく、この世代の若者がいろんな分野で活躍している。それらを見聞きすると、『ゆとり』は本当にダメだったのか考えてみてもいいのではないか」
と言っていた。
私は、錦織選手たちが活躍しているからというのではなく、「ゆとり」がいかにも子どものためにならないかのように袋叩きにされ、学校が一変してしまったことをずっと気にしている。私たちに、物のゆとりだけでなく、時間のゆとり精神のゆとりがなかったら、どういう社会になるか・・・。既にその姿をいろんな所で垣間見られるように感じて、これからをたいへん危惧しているのだが。
センター月例会のひとつ「哲学講座」は一昨日(8日)だった。講師の太田直道さんは、テキスト「人間教育の哲学史」のなかで、
遊びについて、プラトンは興味深い見解を示している。子どもの自由な遊びは、国家の継承の基礎であり、古くから伝わる国家社会の精髄の結晶である。遊びをつうじて育成されるよい性格が国家の基礎となるのだという。
と書いている。
今、学校は学力の競争を強い、親までもそんな学校に声援をおくり、子どもを叱咤して「子ど
もの自由な遊び」を封じこんでいる。その結果はどうなるか。プラトンが「国家の継承の基礎」
と言っている「子どもの自由な遊び」は決してオーバーと笑い捨てることではなく、子どもにと
っての「ゆとり」とともに真剣に考えたいものだ。