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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

7月30日

2014年7月30日

 このごろ、教育関係の書籍に「道徳教育」を扱ったものが多くみられる。首相の強い意欲の実現化が一気にすすんでいることからであろう。

 私は、特設道徳が登場した年に教師生活をスタートした。その当時のことはまったく記憶にないが、いつごろか、時間表に一コマ「道徳」があった。辞める近くには副読本も教室におかれた。

 私の「道徳」は本を読み聞かせる時間だった。あまりうまくいかなかったと今でも悔いの残る6年生のクラスのM夫に「ぼくの一番好きな時間は道徳です」と日記に書かれたことがあった。私は(他の教科ではないのかぁ・・)と思いつつ、それでも読み聞かせをそのように喜んでくれるM夫の言葉は素直にうれしかった。たしか、この時は、ほぼ3ヶ月ぐらいにわたって「漂流」(吉村昭著)を読んでやっているときだったと思う。

 私は教師になって以降、ニイルは今でも体から離れないひとりだが、著書「問題の教師」の中に、以下のような、道徳に触れた箇所がある。

 私は勇気という言葉の代わりに、親切というものを働かしたい。私は学校の子どもたちに世界中でただ一つの罪は、残酷というものであることを教えたい。私はいわゆる道徳を教えない。それは私が道徳とは何であるかをほとんど知らないからである。私は道徳をもたない。私は果たして道德家であるか、それとも不道徳家であるか、私には解らない。ともかく私は人を裁くことをしない。子どもらにも裁きをさせない。しかし、全然そうばかりでもないが、世間並の道徳律を守らぬからとて叱言はいわぬ。掟は決して人間を道徳的にしない。それは単に人間を偽善者にするだけである。

 それにしても首相は、「道徳」をどう考えて、学校にどんなことを願って「道徳教育」に熱心なのか未だに理解できない。私自身が「道徳」に無知なためか。ニイルも「道徳が何であるかほとんど知らないから」と言っている。つまらないことを考えてネッシンであるなら、とんでもない罪つくりであり、ニイルの「道徳を教えない」こそ子どもためと言えそうに思うが。