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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

6月3日

 「わが体験的教育論」(中野孝次著)をたいへんおもしろく読み返した。1985年の岩波新書。前に読んだことは見事に忘れていたので新鮮であり、30年前に書かれたものだが、著者の危惧している教育状況がますますひどくなっているので、体験を通して語る教育論はきわめて説得力があった。

 その中で著者は、イヴァン・イリッチの「脱学校の社会」から、

   学校は学習を“教科教材”に細分化し、これらのあらかじめつくられたカリキュラムを子どもの中に構築し、そしてその結果を国際共通の尺度で測定するかのように装うのである。自分の人間的成長の測定に他人の標準が用いられることを甘受していると、人々はまもなく自らもその同じ尺度を自分自身に適用するようになる。

を引用し、「自己の数量化という危険は、現在の学校制度では行きつくところまでいってい

るのではあるまいか。」と書き、ふたたび、イリッチの次の文を添えている。

   学校において何でも測定できるように教育されてきた人々は、測定できない経験を見逃してしまう。彼らにとって測定できないものは第二義的となり、彼らを脅かすものとなる。

イリッチの「脱学校の社会」(東洋他訳)が出版されたのは1977年。学校にどっぷり浸かり、よかれと思うことに夢中に取り組んでいた私は、「脱学校の社会」を手にしても本気で読むことはなかった。訳者も、あとがきの中で、「理想主義的なだけに、実際的で内面もある。日本の現実とは非常に異なった中南米の状況にもとづいて論じられている部分も多いので、その意味での違和感もあろう」などと書いている。

 それから10年も経たないうちに、自分の教育体験から、中野は日本の教育の危機を感じている。このごろになって私も本気で教育の危機を感じて頭をかかえている。書棚の奥から「脱学校の社会」を30数年ぶりに取り出した。

それにしても、中野が今いたら、この教育状況についてなんと言うだろうか。