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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

5月7日

 連休前半は体調を崩して家に閉じこもる。よって、予定していた「みやぎピース・イベント」にも参加できず。体調不良であっても、ナンバープレートへの挑戦は休まないのだが、やっても自分が情けなくなるほどうまくいかない。 ゴロゴロしながら、時々新聞を広げる。3日の朝日に私も参加した9条を守る意見広告が2面いっぱいに名前の広場を見せる。知人を数名見つけただけだが、思いを同じにする知らない人がこんなにいると思うと、しぜん体に力がわいてくる。この意見広告は始まったころは1面でなかったかと思うから、なおさら、連帯の輪の広がりがうれしくなる。  連休後半になり、やっと自分がもどる。  5日、Tさんに運んでもらってMさんの今年の墓参を済ます。今になるもMさんと語り合いたいと思うのは、自分が少しも成長していないということなのだろうか・・・。
 森敦の25年前のエッセーを読む。短い文の一つひとつのもつ重厚な響きに圧倒される。  そのベースになっているのは「論語」のようだ。森は「幼稚園に上がる年ごろなると、楽しみにしていた幼稚園には行かされず、『論語』の素読をならうために、塾に通わされた」と書いている。  その中に、「論語」とはやや遠いおもしろい話があるので、ちょっと紹介。
~~社長は必ず朝礼の挨拶をする。ほとんど元小学校長の教育課長が草稿をつくるのだが、そんなときはすぐ分かる。面白くないからである。なんといっても、社長が思いついて喋るのにはかなわない。 「きのうの箱根慰安旅行に加わらなかったものが意外に多かったのは残念だ。おそらく、平素よく働いてくれているから、せめて日曜ぐらい家でくつろがせてくれというのだろう。それももっともだが、遊びがなければほんとの仕事もできない。旋盤のバイトを目盛りに合わすとき、一度ハンドルを左に回し、右に回して合わせて行くだろう。それはネジに遊びがあるからで、この遊びがあってこそ、正確に目盛りに合わすことが出来るばかりでない。なければ、機械そのものも壊すだろう。(中略)係長が言っている。たとえば、旋盤工を採用しようというときには、ひと目で分かる。それはすでにからだに遊びがない、旋盤になっているからだ、と。それもそうだろう。しかし、旋盤が街を歩いていれば、わが社の者だと言われるようでも困る。わが社のためになるようでいて、ならないのだ」
説明は、せっかくの文を壊すので、もちろんひかえる。それにしてもマイッタ。
体調は、この「天に送る手紙」を読んでいるうちにすっかり治った。