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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

3月7日

 過日、「『グローバル化』と英語―日本の英語教育はなぜ混乱するのか」という演題での講演会をもった。講師は斎藤兆史さん。お話の間に小中現場からの報告も入れた。英語教育を考えるうえで、たいへん意義ある会になったと自分では思っている。

 現在、英語を小学校3年生からとの話がすすみ、いずれそうなるだろうことも考えて、小学校現場からの参加者を多く期待したがそれはほとんどかなわなかった。なぜかわからないが非常に残念だった。

 この講演会を前にして、斎藤さんの著書「英語達人列伝」(中公新書)を読んだ。たいへんおもしろかった。ここで上げられた英語達人は新渡戸稲造に始まって白州次郎で終わる10人である。そのなかには、この教育会館近くを生地にする斎藤秀三郎もとうぜん入っていた。

 共通しているのは、10人とも“その気になって”英語の達人になったということである。これは何も英語に限ることではないはずだろう。

 著者斎藤さんは、あとがきを次のように結んでいる。たいへん大事ではないかと思うので、少し長くなるがそのまま紹介する。

   日本を文化大国にするために、英語が重要な役割を果たすことは間違いない。当然、質の高い英語教育が必要になるだろう。だが、それはけっして日本独自の言語文化を犠牲にするものであってはならない。最近、英語という言語の成りたち、その多様性、あるいは英米の言語政策(さらには戦略)などをまったく視野に収めぬ浅薄な英語教育推進論が横行していることを、僕は何よりも憂慮している。

    有益な技術である以上、英語はできるに越したことはない。だが、生まれたときから英語圏で生活して、英語の母語話者になればいいというものでもない。日本人として英語を使うことの意味を、われわれはもう一度本気で考えてみるべきではないか。そしてそれを考えるとき、日本の近代を作り上げてきた英語達人たちほど格好の手本はあるまい。

教師は「やれ」と言われればやらざるを得ない。でも、斎藤さんが書かれているようなことを教師が意識して子どもたちと向き合うかどうかは、子どもたちにとっても決して小さくないことと思う。