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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

1月19日

 私は、時間があるとよく手にとる本のひとつが内田義彦さんの書いたものだ。「学問の散策」に、ジョン・スチュアート・ミルについて次のようなことを書いていた。   ミルは、父のジェイムズ・ミルによって、3歳でギリシャ語を、8歳からラテン語を、13歳から経済学を習い、13歳のかれは散歩の途中に説いて聞かされた父の経済学をリポートにして出したという(つまり「出させられた」のだ)。   そのミルは晩年ファーブルとたいへん仲がよかった。ファーブルが失職した時、即座に3000フランを貸したという。ミルがファーブルをそれほど大事にしたのは、他人に対する親切からではなく、失われた自分へのいとしさの現れでもあったのではないか、と内田さんは書く。   そして、内田さんは次のようにつづける。

ミルはもっとも効果的な教育をうけてきたが、その効果的な教育はミルのなかにあるものを切り捨てることでもあった。ミルは、人生の半ばで「精神の危機」を自覚する。「私(ミル)が理想とする社会が完全に実現されたとして、その結果はどうか。そこに現れるのは『荒涼たる砂漠のような』人生以外の何ものでもない」という思いをさせられる、と。ミルの思想は変わったが、失われたミル自身はとりかえすべくもない、ということをファーブルはその仕事そのものによってミルに示す。ミルの「精神の危機」はミルだけのものではないはずだ。ミルの受けた「合理的」な教育は今日ではなくて将来の日本の教育を暗示するものであるかもしれない。しかし、教育によって失われた自分を持つという点では、ミルと同じ経験をすでに十分なめされているはずである。(下線は春日)

 以下内田さんのことばの紹介は止めるが、私がなぜ内田さんの紹介するミルを長々と抜いたか。下線部のなかに、日本でも、「教育によって失われた自分を持つという点では、ミルと同じ経験をすでに十分なめされているはずである」という箇所を考え合いたいと思ってのことである。

しかも、この本は1970年代の初めに書かれている。その当時とも日本の教育はずいぶんと変わった。まさに、教育による「人間の危機」と感じるのはオーバーだろうか・・・。