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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

11月7日

 いま、バスの中で読んでいる本は、吉野源三郎の「人間を信じる」。

 たまたま今朝のページに、中日戦争の最中、占領下の中国をめぐって帰ってきた岸田国士の話を山本有三宅で聞いて考えたことが書いてあった。自分で復唱するためにそれをいくつか書きぬく。

 岸田が中国でやりきれない気持ちになったのは、時局に便乗して中国に渡った日本人たちの、質の悪さ、程度の低さ、その思いあがりだった。軍人も軍人でない日本人も、中国人から見れば理不尽きわまるものだった戦争を、中国のためだといって怪しまない。日本人の独善は眼にあまるものになっていた。

 つづいて、知人のフランス人が日本人について次のように言ったと岸田は紹介してくれた。そのフランス人によると、

日本の芸術や武道に接して、いかにも日本人らしいなと感じ、感心したことをふりかえってみると、たいてい、精神がある一点や、ある瞬間に「集中しきった」というものだ。反面に、いくつかの問題を精神に同時に受けとめて、それを抱えこんでゆくというようなことは、日本人は不得意なようだ。こういう可能性もあれば、ああいう可能性もある、というふうに多くの可能性を並立させ、複雑なものを複雑に考えてゆくことは、日本人には得手でないようだ。「白地に唯一つ赤い丸を印した日本の国旗は、実によく日本人の特徴をあらわしている」

と言ったそうである。

 吉野は、それらから自分が考えたことをいくつか述べているが、その2つ3つ。

 その1。時間的であって空間的でないといってもいいかもしれない。主観的であって客観的でない、とい           うことにもつながるかもしれない。

 その2。純粋なもの、いさぎよいものを好むという傾向は、人間の行為に関しては動機の純不純だけを   問題にして、その行為の客観的な責任を不問に附することになりやすい。

 その3。空間的なものを没却した時間の純粋さを尊んで、精神のそのような集中だけを専ら問題とすれば、現実の問題の現実的な処理をめぐっての打算的考慮などは、まったく閑却されてしまう。実際には、恐ろしい精神主義や主観主義に陥らざるを得ない。

吉野の文はつづくのだが、書きぬくことはもう止める。

 私は、これらを今にもちこんで考えなければならないようだ。フランス人の日本人観、それを受けての吉野の言は、そっくりそのまま私たちに手渡されているように思うので。