mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

10月28日

 通信72号の別冊に「考えない私になってしまいそう」を宮城民教連機関誌「カマラード」から転載した。そのことに関して少し補足をしておきたい。なぜなら、私が手紙の受取人だったので。

 間もなく夏休みが終わろうという日の午後、京子(仮名)が職員室に現れ、夏休みの宿題のひとつ、弁論の原稿を見てほしいというのだった。

 いろいろな雑談の後、読んだ感想として、「これが京子の書いたものか・・。あなたの文らしくないなあ。しかも、あなたは、みんなにこんなこと(・・・・・)を言いたいの?」と言ったものだ。

 それから間もなく届いたのがあの手紙。

そんなことから、結びは、「~中学校に入ってから、みんなの考える力を国語の教科書はもっていってしまいました。弁論大会の作文が味のないものになったのは、きっと私に上べだけの文章を書くくせがついたからだと思います。私はどうなってしまうのでしょう。もう、一生『ヒロシマのうた』のように考えるのは無理なのですか?」となったのである。

それでも京子は、「~手紙の中では、自分が自分でいられそうでウレシイです。~」とも手紙の後がきとして添えていた。

 「一生、考えるのは無理なのですか」という問いに、「そんなことはない」と言ったはずだが、どんな返事を書いたかは今記憶にない。

 ただ、教え子が、「考えない人間になってしまうのではないか」と、今の自分に危機感をもって手紙を書いてきたことに驚くとともに、「考えること」をこれほど大事に思っていることをうれしく思ったことは今も覚えている。

 京子のことを思い起こしているうちに、もっと以前、H子に出した手紙のことを思い出した。6年でのクラスのHは中学3年になり、ツッパリ組のひとりという話が耳に入り気になっていたおり、偶然Hの顔写真を見る機会があった。その後、Hに「写真を見たが、これは、オレにはHの顔ではない。がっかりした」などと書いた手紙を送った。

 すると、間置かずHから長い手紙が届いた。そのなかに「兄は社会人になっており、父は仕事からの帰りは遅い。そこに、母が入院し、寂しい毎日だった私のことをいろいろ心配してくれたのが今の仲間だった」ということが書いてあった。

 大いにありうる話である。道をまっすぐすすめる人こそ多くいるはずはない。手紙を出すことのためらいがなかったわけではないが、自分の気持ちを正直にHに伝えてよかったと思った。そしてHは、私以上に正直に自分を話してくれた。

私のHにもつ心配はほとんど消えたのだった。