mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記・ブログです。

10月16日

 3連休の中日、やっと、「そして父になる」を観に行くことができた。

 映画のあいだ中、今さらどうにもなるものでもないが、未だ「父」になっていない自分を主演の福山に重ねて考えつづけた。

福山のような真っ白なワイシャツは特別な日以外は身につけたことがなく、着るものではリリー・フランキーの方に限りなく近い私なのだが、子どもと一緒に外で飛び回ったり、ほとんど風呂に一緒に入ったりもしなかったことでは、福山と同じだったのだ。

 長く戦地に行っていた父親のせいにするわけではないが、7歳違いの弟とは、つねに父親のいない長男を演じつづけなければならず、父が戦後病気で帰ってきたことも重なって、なんとなく父も私も裸の姿を互いに出さずに短い一緒の時間は終わりになってしまった。その、ほとんど「父親」を知らない私が「そして父になる」を観たということだ。

福山と違って正真正銘の父親でありながら、フランキーになれずにしまった自分を考え、とりかえしのつかないことにきりきりと胸が痛むのだった。

「父になる」というタイトルだが、福山の真っ白いワイシャツに汚れを見せずに映画は終わった。でも、フランキーに育てられたリュウセイは逞しかった。福山もそのうち父にさせられるのだろう。そういう意味では「~になる」という言い切りの形をとったタイトルに監督の確信を感じる。

映画館を出て何日も頭を離れなかったのは、タイトルの「そして」である。「そして父になる」は落ち着きがいい。落ち着きがいいだけなのか。そんなはずはない。なぜ「そして」を監督は付けたのか。「そして」を付すことで何がどうなるのか。「父になる」だけでは何がダメなのか・・・。

とうとう辞書を見た。「そして」を広辞苑は「そうして。そのうえに」と。これではまったく勝負にならない。別の辞典は「並存する・時間的順序に従う行為・作用。追加・累加していく事柄」と。

これなら説明がつきそうだし、監督の思いも伝わってくるように感じ、やっと、映画「そして父になる」と少し距離をとれるようになった。