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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

9月30日

 雑誌「教育」を読む例会に出た。9月号をテキストにしたので、「道徳」が話し合いの中心テーマだった。

 道徳を教科になどというのは論外だが、「道徳教育」については自分を振り返ると語ることを極力避けてきたように思う。確かに、そのねらいは特別な日本の伝統の強調にあることからしぜんにそういう姿勢が作られたと言えるかもしれない。しかも、「徳目」の問題だけを取り上げて忌避してきたとも言える。あくまでも自分の場合からの推測だが。

 かつて、生活科の教科書編集会議で、「人間の力を超えたものに対する怖れ」を入れなくていいかという提案があった。提案者は道徳の徳目に「畏怖の念」があることを知っていての話ではなかったが、徳目にあることを知っている仲間は一瞬ぎくりとした様子を見せたのだった。その後、編集会議では、それぞれの「怖れ」の体験を出し合い、夜明けまで議論をつづけた。道徳の「畏敬の念」のねらいは明らかに私たちのねらいとは違っている。だから、それを避けて通るということはどうなのか、議論をしながらいろいろ考えたことを思い出した。20年以上も前のことである。

ユネスコの「平和・人権・民主主義のための教育・宣言」が20年ぐらい前に出され、「児童・生徒・学生・成人が人間同士互いに尊重し合い、平和、人権、民主主義を促進しようとする人格の発達に寄与しうる原理と方法の上に教育の基礎を置くこと」があげられている。これらを道徳教育のベースにしてそれぞれのクラスで授業が創られていったら大きな意味をもつものになるのではないか。

道徳の話をはずすが、生活科の教科書作りは、これまで考えたこともないものを私に残してくれたし、検定を通して、日本の教育の問題を考えさせてもらった。

1例をあげる。1年の教科書のみかえしを学区の鳥瞰図にした。それに修正意見がついた。「1年が学習する範囲は自分の学区内です。図の右上は明らかに他学区の集落であり、それが入ったままではいけません」と。私たちは他の集落が見えることで、自分の学区だけの図よりも子どもたちの想像を大きくふくらますものと考えたのだ。

いま、被災地を中心に宮城では統廃合が進んでいる。いくつもの集落の子どもたちがスクールバスで通学していることを考えると、この検定意見はどうなるのだろうなどと・・。