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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

8月28日

 昨日、全国学力テストの結果が発表された。小6・中3ともに秋田が連続1位で宮城はランクを下げたとのこと。ランクを上げた県はどんな努力をしたかとか、秋田県への他県教師の短期留学(?)のことなどが、メディアで報じられていた。休み中も勉強している子どもたちが、「楽しい!」とテレビの画面にニコニコ顔で映っているのを、ただただ(はあ、そうですか)と眺めるだけで、声も出なかった。早くから、机上にワークブックらしきものを広げて、「楽しい!」と言う子の姿を素直に喜んでいいのだろうか、「昔々子どもだった人間」の心は素直にはならず、うまい言葉を見つけかねている。

 学力テストをまるっきりムダと思っているわけでもないが、55億円もかけて毎年行い、都道府県の序列が大きく報じられ、宮城県のようにランクがまた下がったところは、「学力向上対策を再考しなければ」などと大真面目に応える担当者の様子などにも言う言葉がない。そんなこんな疑問はいくつも湧いてくる。おそらく各都道府県内では市町村の序列、学校別の序列とエスカレートしてくるのだろう。

 何よりも心配なのは、この学力テストが、正常な学校の営みを、子ども時代を大きく歪めることになるのではないかということ。幸い、子どもはそんなことで簡単につぶれはしないと思うが、教師だけでなく、最近は時代の勝者にと、親までが競争に目の色を変えていることを考えると、子どもはしたたかだからなどと安穏と見ておれないようにも思い、私のおせっかい心では、この学力テストははなはだ困ったものにしかならない。

 新聞に、山口県では、向上対策として「授業のうまい先生の授業を見せるようにしたら、今回向上した」と書いてあった。これは、学テの対策云々の問題ではないだろう。私の若い時代は、そういう先生の授業を、身銭を切って見て歩いた。自分が選んだのであって、指定教師という点ではまるっきり違うし、身銭を切るというのはその時代そうする以外方法はなかったということだが。教師の学びの場を広げることはどんな時代にも第一に考えなければならないことであろう。

 今朝読んだ鶴見俊輔関川夏央の対談本で、関川が自分の子ども時代について「~貧乏であっても、どの家でも貧乏でしたから、いわば協和的に貧乏でしたね」と言うのを受けて鶴見が、「それそれ、『協和的に』という以外に、人間になんの理想がありえますか」と言っていた。

 学力テストのことで気分が憂鬱だっただけに、鶴見さんの「協和的以外に人間になんの理想がありえますか」は、なんともスカッとした響きとして体中を駆け巡った。