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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

7月3日

 ここ長期にわたって宮城の中で報告された文学作品の読み方の実践を1冊にまとめる仕事(民間教育研究団体の小学校編)に参加している。

 5人で作業をしているのだが、「宮城の」と銘打ちながら、5人の見える範囲ははなはだ狭く、県内の様子を広く見える方からは「これが『宮城の!』、とんでもない」と叱られそうだ。

 編集会議で集めたものは、主として、今は刊行停止になっている、県教組発行の機関誌「教育文化」、宮城民教連発行の「第4次 カマラード」、教科研国語部会よみかた指導東北研究会発行の「よみかた東北」に掲載されたものから取り上げた。

 B5版で270ページ程度のものだが、それでいて、実践報告の本数はそれほど多くはない。もっと入れたくても誌価の心配が出てくるのでページ数は限界だ。結局は中途半端な実践集ということになるかもしれない。それでも、まとまった姿を見せてくると、自画自賛かもしれないが、まとめる意義といくらかの値打ちもあろうと思ってきている。

 今まで取り組んだことのない作業をするなかでいろいろなことを考えさせられ、編集に参加できてよかったと思っている。その1つ2つをあげてみる。

 1つは、実践報告の書き方は実にさまざまであり、その報告の仕方・内容もみな違う。玉石混交という言い方も当たらない、なにしろ「玉はあるのか」と問われると答えに窮するので。しょせん、私たちの実践はどんなにがんばっても光り輝くものなどにならないのだから(掲載させてもらった他の人から叱られそうだが)。

 でも、このようにまとめてみると、お互いの報告が響き合い、それぞれが単独で報告検討された時と違った意味をもつものになってくるのだ。これは、私にとって大きな発見であり驚きだった。どうしてそうなるのかはこれからよく考えてみたいが。

 一本だけを取り上げて検討すると、不足なものばかりが見えてくることが多いが、他とまとめて読むと、光をもたなかった石であってもその実践のどこかに光を感じてくるのだから不思議だ。これは、私の勝手な思い込みかもしれないが、複数の実践での検討の大事さを示しているように思うし、ある指導の型に固まりすぎることも気をつけなければならないという警告にも感じる。

 もう1つあげると、今度のまとめは、前述したように、3つの機関誌に掲載されていたものが中心になる。現在は3誌とも休んでいることを考え、あらためて心配になってきた。今も機関誌をもつサークルはあるが、多くはない。とすると、仕事は個人の段階で閉じられてしまっていることが多くなっているということになる。お互いが仕事で刺激し合わなくなるのだから、よほどのがんばりをしないと仕事の低下につながっていくのではないか。

 そのうえ、今度のような実践集づくりも難しくなってきそうに思う。その必要をだれも欲しなくなるであろうから、そんな心配は無用か・・・。