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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

5月20日

 先日の福田誠治さんの講演会はフィンランドの教育を通して日本の教育の問題とあるべき方向をとても明確にしめしていただいた。同時に、かつての私の教室の事実までをも思い出すことができた。そして、自分が考えつづけ取り組んだことも大きくは違っていなかったように思い、内心ホッともした。

 思い出した1つは、4年生と「夕鶴」の読みの授業に取り組んでいた時のナオコとメグミの日記だ。次のような短い日記で、私の中ではいつもセットになっている。

         国語の時間

 いつも国語の時間思っていたんですが、たとえば、「山も、野原も、畑も、田んぼも、みんなまっ白な雪におおわれています」 なんか、いっぱい文のうらにひみつがかくされているんだなと思いました。

みんながさがさないとわからないことが、まだまだあるんだなと思いました。                   9月17日  ナオコ

                   文のひみつ

  いつも思うけれど、国語の“文のうらのひみつ”というのは、 文はもんだい、そして、ひみつはこたえだと思う。

文のうらのひみつを考えてみれば、なんだかとてもむずかしいのがわかりきってくる。それをみんながいっしょうけんめいすれば、全部のひみつがわかるんだ・・・と思った。それはあたりまえなのかなあ。

  よく分からないような気もするけど、そうだとかんじる。

                      10月3日   メグミ

 題もそれぞれ自分でつけたもので、私を喜ばせた日記で何年経っても残っているものだ。メグミは「文のひみつ」と題をつけているが、これは、ナオコの日記の中で使われているものにまちがいない。ナオコの日記を通信に載せ全体に紹介したときからメグミの体のなかに入り込み、彼女は考えつづけ、やっとたどりついたのが、「文はもんだい、ひみつはこたえ」であったと思う。103日に書かれているが、「夕鶴」はまだつづいている。

 ナオコは「みんながさがさないと」と言い、メグミは「みんながいっしょうけんめいすれば」と言っている。まちがいなく教室の「みんな」を指す。一緒に学ぶことに2人とも喜びを感じているから使ったのだと私は今でも思いこんでいる。ナオコが投げたボールを受けたメグミは、受けて終わりにせず、「みんな」にまたボ―ルを投げている。メグミの日記もまた私はさっそく通信で紹介したのだった。

 このような教室にテストは不要どころか、かえって教室をじゃまする。フィンランドのような確かな根拠に基づいているわけではないが、私にも、テストも競争も教室には困るものだった。

 とは言っても、あの子どもたちにとって、福田さんが話しておられた「学びつづける力」となっているかどうかとなると極めて心配なのだが・・・。