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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

6月14日

 われわれの「茶畑」時代は、何をしても自由であった環境のなかから、ひとりびとりにとってかけがえのないものを、それぞれに探しあてたのだった。ひさし君の生来のエスプリも、あの雰囲気のなかで人知れずしずかに発酵していたのだと思う。

この文は、井上ひさし特集の雑誌のなかに、樋口陽一さんがかつて書かれた「『青葉繁れる』の友・ひさし君」が載っており、その結びである。「茶畑」(仙台一高)はということになるが、学校で一緒に学ぶ意味や意義を樋口さんは見事に言い得ているように思う。あの鬼才も教師だけでなく多くの学友とのなかで、そして3年間で1000本も観たという映画のなかで育まれていったのだ。

 吉野源三郎の「君たちはどう生きるか」は、叔父さんと語らいつづけ、友人との交わりを通して、最後にコペル君に次のようにノートに書かせている。

   僕は、すべての人がおたがいによい友だちであるような、そういう世の中がこなければいけないと思います。人類は今まで進歩してきたのですから、きっと今にそういう世の中に行きつくだろうと思います。そして僕は、それに役立つような人間になりたいと思います。

こんな人間の交わりのなかでヒトは人になっていくことがよくわかる。

仙台の現場の方と話をすると、時々「自分づくり教育」という言葉を耳にする。聞くたびに、なんとも不思議な感じがするのだ。「教育」にどうして「自分づくり」がのっかっているのか、「教育」だけではどうしてダメなのか、この言葉をつくった人は「教育」をどう考えているのか、大人の持つ不遜な響きさえ覚える。

 仙台市教委の「『仙台自分づくり教育』の手引き本編」で、「『仙台自分づくり教育』は、児童生徒一人一人が、確かな学力の向上を図るとともに、人とのかかわりを大事にしながら、将来の社会的・職業的自立を目指して必要な態度や能力をはぐくみ、社会人としてより充実した生き方を切り拓いていくことを目的とした教育です。」と説明している。

 どうやら、「自分づくり」が付いていることのねらいは、文の後半部にあるらしい。

 少なくとも私のもつ「教育」観とは大きく違う。子どもにとってずいぶんおせっかい過ぎることと思えて可哀そうにさえなってしまう。将来のために小・中学校はあるのだろうか。  学校・教育の仕事は、子どもらのその時々を十分学びの喜び・生きている喜びを感じさせ、樋口さんの言うように「しずかに発酵する」支えになることではないのか。