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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

3月13日

 3・11から2年も経った。時間は速いが被災地の動きははがゆいくらい遅い。それだけ巨大だったということになるのか。動きの詳細が見えなくても、向うに光が見えるのであれば被災した人たちも力がもっと湧いてくるかもしれないのに・・・どうして・・・。

 県が統一した復興計画などは考えられない、それは市や町でも同様だろう。そもそも、今の市町村は「大きいことはいいこと」の合唱の結果の産物で、住んでいる人びとの細部の事情はそっちのけの合併だったように私には思われる。それがゼロからの再スタートとなれば、元にもどった小さな単位でそこにもっともふさわしい再建を考えるのがもっともいいのではないか。しかし、とんでもない防潮堤案のことひとつ考えてみても、復興が遅れているだけではない、種々の計画案についての心配がとめどなくわいてくる。

 一方、驚くべき速さで進められているのが学校の廃校・統合だ。仮設住宅住まいがつづく今、スクールバス通学はやむを得まいが、生活基盤がまだ決まらないうちから、アンケートの結果で3・11前の地にもどろうという人が少ないからと、学校だけがどうしてこうも早々と廃校を決めなければならないのだろうか。

 廃校統合によって、子どもたちの多くはスクールバス通がつづくことになるのだろう。子ども時代を生きる意味は、学校での学習にだけあるのではない。学校の行き帰りも大きな意味をもつはずだ。

 レイチェルカーソンは「センス オブ ワンダー」で、人間における子ども時代の大切さを繰り返し述べている。この子ども時代のなかで身に付けた「神秘さや不思議さに目をみはる感性」が大人になって必ずや出合うだろう倦怠と幻滅、人工的快感の解毒剤になってくれるのだ と。

スクールバスは、その相当部分をそぎ取ってしまうだろう。

 私は、山の分校で小学校時代6年間を過ごした。一山越して小学校に通った。その行き帰りは学校以上の学校だった。中学時代は片道1時間近く歩いた。その時間もまた私にとっての学校だった。

 過激な学力競争時代であり、少子化時代ゆえに、小さい学校が容易に切り捨てられていくのだろうが、地域と学校のあるべき姿を、学力競争の視点でだけでなく、子どものためにもっともっと考えていいのではないか。3・11は、そのことをも私たちに提起しているのではないか。