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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

3月5日

 2日に「センターのつどい」を予定通りもつことができた。これからのセンターを考えるために4人の方に短時間のお話をお願いした。それぞれの方のテーマは「設立の初心とこれから」「3・11後のセンターは」「大学教育の場からセンターのこれからに」「子どもの幸せのために現場とセンターは」。ほぼ用意した椅子が埋まり、センターのこれからを考え合うための会にこれだけの方に集まっていただけたことはたいへんうれしく、かつ、緊張もした。

 4人の方からの発言もセンターの役割を広く深くするものだったが、次々に出された参加者からの発言も加わり何重にもふくらんでいった。

 話を聞きながら、期待に応える仕事を何ほどもやっていないことを思い知らされた感じになった。つまり、たくさんのことを期待されながら、ほとんどの人の期待に応えていないということがよくわかったのだ。どうすればいいか・・・。

まず決定的に私自身の問題の大きさに気づかされた。それは何か。センターの担うべき役割の全体像を明確に描くことなく、ただ個々の仕事を追いつづけていたことだ。

その因は何にあるか。まずは自分に教育文化研究センターのイメージを描く力がまったく欠落していたこと、そして、その力不足を自覚して補うべき方途を自らとらなかったことにあると言える。今頃気づくなんて何たること・・・。

仙台に来た60年代末、当時の教文部長のAさんから「教育文化の編集会議をのぞいてみないか」と誘われたことがある。そこには現場教師以外の人たちが結構入っていた。時には県外の人までも。その人々が毎回大いに議論を闘わす。樹木に例えれば、それがいつも樹を太くし根を広くはわせていたのだ。議論はめったに枝葉にまではいかない。それでいて雑誌は毎号出来上がっていた。

誰かが樹をもち根をもっていたというわけではない。議論の中からいつの間にか見えてきていた。そこにいることで緊張を強いられる感じをもちながら、同時に心地よさも感じるのだった。

そのような場は今時代遅れなのだろうか。決してそうではないように思いながら、そう思う自分がついつい事務的に事をすすめており、かつてのあこがれの場をつくりかねているのだ。

昔のことまで思い出されるなど、これまでになく研究センターと自分を考えさせられた、私にとっては意義深い「センターのつどい」であった。

あらためて参加者に感謝である。