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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

2月21日

 早くなんとか正常になりたいと思いつつ、このホームページが未だ半身麻痺状態がつづいていることが気になっている。もう少しお待ちいただきたい。

18日のヤスパース読書会の時、何がきっかけになったか記憶にないが、阿部次郎の名が浮かび、学生時代に聞いた角川源義の講演のことが思い出された。角川源義角川書店の創設者である。

その講演の冒頭で角川は、「仙台に来たのは今日が二度目です。初めは、阿部次郎に会いに来ました。出版社を始めたのですが、何を出してもまったくダメなのです。最後に、阿部次郎の『三太郎の日記』を出して、それがダメだったら死ぬより他はないと考え、著者に直接頼みに来たのでした。それがうまくいき、今、ここに立っています」と言うのだった。1956年だったと思う。

その時は、とくに不思議に思わなかったが、しばらくたって疑問がふくらみ今も自分のなかで解けないのは、角川が起死回生の本として、なぜ「三太郎の日記」を選んだのか、それがなぜ書店を生き返らせるほど売れたのかということだ。

カギは「いつだったのか」「どういう時代状況だったのか」しか考えられない。

「三太郎の日記」が初めて出版されたのは1914年、岩波からである。ずいぶん早い。

角川源義が出版の仕事を始めたのは1945年とあるから、戦後まもなくだろう。そして、「合本 三太郎の日記」初刷りが1950年3月、55年10月には19版が出ている。しかも、併行するように「三太郎の日記 補遺」が50年11月に初刷りが出て、55年6月には4版になっている。阿部次郎に会いに来たのは、とうぜん50年3月の前ということになる。

戦後の5年間とは日本人がどんな歩みをした時になるのだろうか。今と何が違うのだろうか。

ネットのなかに、「東北大学の先生で阿部次郎を知らない方がいたので驚いた。われわれの学生時代は読んでいないと会話に入れない雰囲気があった。」とも書いてあった。

私にとって55年は中学3年生だ。新制中学の3回生で小学校での間借り生活、まだ衣食もたいへんな時だった。そんな時、「三太郎の日記」が青年の必読書だったのだ。衣食足りる今、なぜ「三太郎の日記」その他多くの書が歯牙にもかけられないのか。

阿部次郎は、補遺自序の結びの段落のなかで、「蝶の研究者はその幼虫の標本をもまた必要とするであろう。私は彼らに一つの毛虫の標本を提供するのである」と書いている。今、標本が不要とだれが言えるだろう。