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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

2月17日

 布団のなかで読む本が水村美苗著「母の遺産」に入っている。この本を読むようになったためか、寝につくまでにとうにいなくなっている母との断片が時々浮かんでくる。

父は、小学校に入る前に一度、入学後間もなくまた入隊。アメーバー赤痢で終戦の翌年奇跡的に帰国し、ほとんどは入院生活、中学2年の時他界したので、実際父と一緒の生活はいくらもなかった。

私の思い出の母は、いつも必死で働いていた。祖父が残した借金を婿入りした父が精算してくれたという負い目を一生背負いつづけて生きていることを私はずいぶん早くから感じていたし、その父が留守の間に家に何かあってはならないといつもピリピリしていたことは小学生の私にも伝わってきた。

空襲が激しくなり、仙台まで焼かれたと知ると、煙突の煤水で家の白壁を全部黒く塗りまくった。白壁は狙われると聞き、父が帰るまで家を焼かれてたまるかという思いだったのだ。梯子にのぼり、暑い夏の日、したたり落ちる玉のような汗をぬぐいながら母は刷毛を動かしつづけた。間もなく終戦、今も白壁の煤あとは残っている。

小学2年生の時、学校を休もうと思った時があった。特別な理由は何もなかったと思う。学校が嫌いでもなかった。山越えをしての学校への往復はことさら楽しみが多かったし・・。

私は、腹痛を理由に「学校を休む」と言い、朝食を我慢して食べずそのまま寝ていた。いつもの時間は過ぎていたのだが、突然現れた母に布団をはがれ、無理やり服を着せられた。「急いで学校にいくのだ!」と怒鳴られ、ランドセルを背負わされて途中まで引きずられ、「ここからは一人で行け!」と投げ出された。仕方なしにそのまま学校に行ったが、この時、(親はだませないものだ)とつくづく思ったが、後で考えると、これも戦地の父を考えてのことだったかもしれない。

人生の短時間しか親子4人の暮らしはなかったが、戦後の数年は病気とは言え、父を気にしヒクツ過ぎる母の様子はあまりにも気の毒に見え、それに引き換え、父の無表情が大いに気になった。父のようにはなるまいと思いつづけたが、いつの間にかすっかり父と同じ姿になっている自分に驚き情けなくなっている。

いかに負の遺産を背負っていても戦争がなければ母はもう少し生きる喜びをもつことができたろうし、父の姿もまた違っていただろうといつも思う。これが二度と戦争をしてはならないと強く願う私の原点でもある。