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mkbkc’s diary

みやぎ教育文化研究センターの日記です。

2月11日

 県美術館での佐藤忠良展にやっと行くことができた。

常設の狭い忠良館では一度に見ることができない作品群であり、たくさんのスケッチ、本の挿絵など、見終わって体中が満たされた思いになった。台原の「碧の風」の前にそのエスキースが置かれてあったのにも大いに得をした気分になった。

 私の見逃しだったのか、「佐藤朔先生」の頭像に会えなかったのはたいへん残念だった。

というのは、私がアトリエにお邪魔したとき制作中だったのが「朔先生」で、忠良さんは「なかなかうまくいかないんです」とおっしゃっていたのだった。その後、完成した作品は忠良館でもお会いしたし、高島屋での個展でもお会いしているが。

「朔先生」を前にすると、アトリエの様子、忠良さんの姿が私にはより鮮やかに浮かんでくるのだ。アトリエにお邪魔した時、ちょうど、宮城県への寄贈が決まった時で、「議会へ提案するので3分の1ぐらいの作品目録を出すようにと言われた。自分でその作品名を書きぬくことはとてもできないからさ笹戸さんにつくってもらってる。持ってきて見せて・・」と言い、笹戸さんに見せていただいたのだった。

 この時見せていただいたものがもうひとつあった。それは、一緒に行った現代美術社の太田弘がねだったものでもなく、忠良さん自ら出してきて見せてくださったもので、「造形大学名誉教授 第1号」の証書。それを広げながらのお話を聞きながら、忠良さんのもつ造形大学への思い入れの強さが私のような者にまで強く伝わってくるのだった。忠良さんにとっては、朝日賞や悌三郎賞など比較にならぬ重みをもつのだ。お話のなかで、職人という言葉が何度も使われた。造形大学をつくっての教育についてもどう職人づくりをしたか、時間を忘れるように熱っぽく話を聞かせていただいた。

 後日、私の教室で彫塑の授業をしていただくという、夢みたいなプレゼントをいただくことができた。そのとき、忠良さんは、「私は仕事のためにまだまだ時間がほしいから、他でもということはないということでね」とささやかれたのだった。もしかすると、小学校での忠良さんの授業を受けられたのは私のクラスの子どもたちだけだったのかもしれない。